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デカルトが教えてくれたたったひとつのさえないやりかた

2010.06.04(00:46)

方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07)
デカルト

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 さいきん読んでいちばん笑ったのはデカルトさんの「方法序説」で(デカルトさんはんぱないよ、ちょっとまえに書いたけれど、彼は「真なるものは自身のなかで確固たるものがあってのみ真となる」みたいなことを言っていて、だからそのほかのものは彼にとってすべて偽としてとどめておく、それが真理を求めるための思考法である、ということをなんだと思うけれど、ちょろっと「だから外界のどうにもならないことをとっととあきらめちゃえばいちいち自分のなかでざんねんに思うこともないっしょ?」とも書いてあって、わたしは「なんてやる気のないおっさんだ!」と思って電車のなかでくすくす笑った)、次いでもう1年くらいまえからちょっとずつ読んでいるのにまだ200ページくらいしか読めていないクリステヴァ「ことば、この未知なるもの」を読んで「むみゃーん!」と思った。
 かつて哲学は真理を求めるものだった。その性質として、真理には対義語すらなかった。対義語すらないものが真理だった。哲学を極めることでひとびとは世界のあらゆることについて「わかる」と思っていた。いまでは哲学の先生ですら「哲学なんてやったってなんの価値もないよ」と平気で言って、それはたぶんただしいと思うけれど、とにかく、近代より前の時代には哲学は実際的な学問だったはずだと思う。近代以後になると、ひとびとは「あれ、てか真理なんてこの世界になくね?」と思いはじめた。現代数学とそれにともなう量子力学の発展はそれを裏づけていたのかもしれなかった。わたしは「この世界に真理がない」というのは「哲学なんてやったってなんの価値もないよ」と言いながらそれでも哲学を愛するための逆側からの肯定に思えるけれど、とにかく、たぶんひとびとはそう思いはじめた。
 真理が存在していた頃、デカルトさんは「俺、真理見つけるにょ!」と思った。そのためにはものごとをどう考えていったらいいかな、と思っていたデカルトさんは、ある日いきなり代数学と幾何学を結びつけてしまった。わたしたちはy=2x+4を見ればそれが直線だということがわかるし、 y*y+x*x=4を見ればそれが円だということがわかる。でもデカルトさん以前そんなことを考えたひとはいなかった。かつて、ギリシア人が使っていた幾何学はa*bが別種の次元単位として考えられていた。でもデカルトさんは「いやいや、んなもん全部線じゃね?」と言った。彼は立体でもなんでも線だと考えた。そして彼は次元を統一した。次元を統一した結果、彼は数を文字で置きかえてしまったし、文字を量的関係や長さを記号化してしまった。するとなにが起こったのか、いままでさっぱりわからなかった3次方程式や4次方程式が解けるようになってしまったし、接線まで導きだせるようになってしまった(!)。
 わたしが興味深く思うのは、たとえばデカルトさんのやったことがべつにそれをやろうと思ってやったことではなく、ただ真理を求めるための道具、産物として現れてきたということだった。「我思う、ゆえに我あり」と言ったのはデカルトさんだけれど、彼は思索の果てに自分の実存を確信したためにそう言ったわけではなく(「わたし…この世界にほんとに存在するのかな…」というあまっちょろい青春の悩みにデカルトさんは対峙したわけはたぶんない。デカルトさんは自分が存在するかどうかなんて興味がなかったにちがいない)、前述の通り、デカルトさんは自分のなかで確たるものとなっていないあらゆるものにたいして「偽」と判定していたので、その過渡期のなかでなにか確たるものを持たないと「偽」と判定することすらできなくなっちゃう、と考えた。だから、「我思う、ゆえに我あり」と言った。あらゆる「偽」にたいしてそれを「真」と変えるための行為、思索の途中であってもその思索のみは真だと言った。でも、デカルトさんは「1の次には2がくるよ」と言っただけだった。彼はその「真」を絶対に揺るぎない第一論理として規定し、そこから「真理」を求めるための思索と始めた。「我思う、ゆえに我あり」は到達点ではなく出発点だった。
 クリステヴァ「ことば、この未知なるもの」を読んでいると、論理というものはぜんぜん意識していないけれど西洋の産物だな、ということを思う。西洋のひとたちは歴史は直線に進むと思っていた。レヴィ=ストロースというひとは南の島でわっほいわっほいやっているうちに、「歴史とは線形に進むものではないかもしれぬ」ということを示しはじめた。それはものすごくかんたんに言えば「俺たち西洋、俺たちはいほー、俺たち俺らのことしか考えてないぜらりほー」ということを否定することだった。時間、あるいは進歩は線形でないなら、たとえば論理というのはひとつのありかたでしかないし、逆に言うと、言語というのもひとつのありかたでしかない。たとえばアラブの国はものすごいことをやっていて、あいつら、科学書を平気で詩で書いたりしている。聖書とはちがってイスラム教の聖典「コーラン」は言葉までをふくめたそのすべてが神に由来すると解釈されるため、翻訳されたものは「コーラン」とは認められないし、サウジアラビアの憲法はいまだに「コーラン」となっている。
 わたしが思うのは、ものごとのありかたが「始まり」と「終わり」、あるいは「出発」と「到達」という線形のありかたになっていないとき、やっぱりどうしたらいいのだろうかということだった。始まりがなくても終わりはあるし、終わりがなくてもひとは始めることができると思う。微分法が発明されたとき、ひとは挙動を失った。微分された世界においてはもう目的も手段もない、それはこわいことだ。それがこわいから、わたしたちは微分方程式をさしだされたときそれを解こうとする。金融工学、生物の個体数の変化、一般的ににんげんの手によって解くことができない微分方程式はコンピュータにぶちこんで近似解を求めることで暫定的な解決をもたらされた。けれどそれらを積分したときにわたしたちはなにを見るんだろうか。「始まり」も「終わり」も存在しないかもしれないものにむりやりに「始まり」や「終わり」を見いだそうとするとき、わたしたちはどんなふうに壊れていくんだろうか。たとえばごきぶり、わたしの家にさいきんあらわれたごきぶりに「始まり」や「終わり」はあるんだろうか。わたしはごきぶりを微分するだろう。わたしをそれから「始まり」や「終わり」をとりのぞこうとするだろう。「ごき」に「ぶり」。そのものすごい名前は、彼らのいやらしさを表しすぎている。だからわたしはごきぶりから「ごき」や「ぶり」をとりのぞくだろう。それから、わたしはごきぶりを積分してあげなくてはならない。たとえばわたしはごきぶりに「ブラッド・ピット」と名づけたいと思う。彼らがやってきたらわたしは「ブラッド・ピットがまたうちにきた!」とさけぶだろう。ほら、それだけでわたしは生きていける。ほら、それだけでわたしは生きていける。




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