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劇団、本谷有希子「甘え」@青山円形劇場

2010.06.06(00:13)

マロウンは死ぬマロウンは死ぬ
(1995/08)
サミュエル ベケット

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「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」を見た。わたしは3回くらいこの映画を見て3回くらい号泣しているけれど、やっぱり泣いた。
「ドラえもん のび太の創世日記」を見た。見ていないと思って見たのにわたしは思いきり見ていた。たぶん3回くらい見ていた。すっかり忘れていた。冒頭でのび太くんが「アダムとイヴが全部わるいんだ! こいつらが知恵の実を食べなければ僕たちは夏休みの宿題に追われることなく楽園で楽しく過ごしていたのに!」とひとりごとをさけんでいる場面があった。「おまえ斬新すぎるよ」と思った。

   ◇◇◇

 宮益坂口で待ちあわせたはずなのに「宮益坂口がない!」と言われ、ないならしかたないのでハチ公先生まえでぺん子さんと待ちあわせをしてお昼ごはんを食べた。お昼ごはんはとろろかけごはんだった。お昼ごはんはとろろかけごはんだった。「ととろってなに?」と訊いたら「芋のはず」と教えてもらった。またひとつ賢くなった。とろろは唯一生のまま食べることができる芋で、しかも山菜の王様らしい。またひとつ賢くなった。ぺん子さんにiphoneとはなにか、ipadとはなにか、教えてもらおうと思ったけれど、彼女もなんにも知らなかった。重要なところで賢くなれない!
 青山円形劇場で劇団、本谷有希子「甘え」を見た。「1度見た劇団を2回見るよりもはじめての劇団をいっぱい見たい」のと「高い!」のでずいぶん足が遠のいていたけれど、やっぱり本谷有希子はおもしろかった。小池栄子がやはりかわいかった。つねに前傾姿勢で独特なトーンで話す小池栄子は三角みづ紀さんに似ていると思った。本谷有希子の演劇がすばらしいのは、男性にはっきりとした脅迫的威厳があるのと、女性にはっきりとした脅迫的変態があることだと思う。あとは、ひとつの話しかた、あるいはひとつの話しかたとわたしに思えるようなものをしっかりとうちたてている点だと思う。けっきょくのところ、ストーリーの筋も、彼女特有の台詞まわし(安藤玉恵は小池栄子に向かって「脳みそがおしゃれだね!」と言った)も、話しかたの上にのみ宿ると思う。演劇なんてけっきょくのところだれがなにをどんなしゃべりかたでしゃべっているということでしかないと思うから、演劇をつくるには、だれがなにをどんなしゃべりかたでしゃべるかをつくるしかほとんどの場合手段がないと思う。あと本谷有希子の声がかわいい。
「劇場をでた途端応援歌が流れだした!」と言いきったぺん子さんはサッカー観戦のために帰り、わたしはBunkamuraザ・ミュージアムまで行って「語りかける風景」を見てきた。ピカソもコローもよかったけれど、いちばんよかったのはモーリス・エリオ「年老いた人々」。ロリコンなので手前の孫娘が好きだったけれど、それだけでなく、農夫たちの輪郭を青や緑で平気でぺたこらぺたこら塗っちゃうおしゃれかげんがすてきだった。
 喫茶店でベケット「マロウンは死ぬ」を読んで、これは今年読んだなかでさいこうにおもしろい本だなと思った。今度からは「好きな作家は?」と訊かれたら「ベケットとカフカ」と答えよう。メタフィクションというものに疑いを持っていて、たとえばこの小説はメタフィクションと言えなくはないけれど、一般的に小説から浮きあがってしまいがちなメタフィクション小説とはちがって、「マロウン」はしっかりと小説にはりついていながら飛翔しようとする。この小説を読んでいてわたしが感動するのは、この小説じたいが「小説」から離れようとしているのに、とりもちにからまれた鳥のようにどうしても離れられない、ここちわるさにも似たここちよさを感じるからだと思う。

 ラムバートは親愛なる肉親に向かって、夜ごと、ランプの灯が細るまで、自分が屠殺したばかりの豚について滔滔と弁じたてた。これは頼まれて次の屠殺に出かけてゆく日まで続くのだった。

 彼は12月から3月まで屠殺と豚の話をくりかえす。彼は老人であるのでそれ以外誇れるものがなく、しかも、彼はそれ以外の季節にはふっつり黙りこんでなにもしゃべれない。彼の態度を若い妻が正そうとすると、「彼は洗濯場へ駆けこんで、洗濯用のたたき棒をつかんで戻り、彼女がもっとまっとうな考え方に立ち返るまで、彼女を殴った」。ベケットの小説は飛翔と着地のくりかえしにすぎない。たぶん、それらをくりかえしすぎてもう彼にはどっちがどっちだか区別ができないにちがいない。彼の文章は基本的に彼が書いた文章を次の文章が打ち消すかたちで成りたっている。彼は自分の描いた現実を実現させない。けれどそれだからこそのっぺりと、紙に文章がはりついている。

 とうとうもうじきわたしは完全に死ぬだろう、結局のところ。たぶん来月。というのは四月か五月のはずだ。というのは今年になってからまだそれほどたっていない、それはいろんな細かいところでわかる。

 ふつう、ある文章の次にべつの文章がくる場合、後者の文章は前者の文章を補完するように書かれる。けれどベケットの場合ちがう。「とうとうもうじき」「来月」「四月」「五月」「今年になってからまだそれほどたっていない」。たった2行のあいだに「わたし」の死ぬ時期について5回も書きなおされているけれど、それは「わたし」の死ぬ時期をより正確に表そうという試みですらない。むしろ、「わたし」の死ぬ時期を角度を変えて言いなおすことによってそれが表す現実をうちこわすように書かれているように見える。彼の文章はおたがいを否定するようなやりかたで手をにぎりあって、おたがいを支えている。だから、ベケットの文章はほとんど唯一、わたしが思う人間関係のありかたと類似している。
 べつに、他人を否定しながらとなりにいたっていいじゃないか。

   ◇◇◇

 ライズXでヤン・イクチュン「息もできない」を見た。泣いた。この映画の台詞のたいはんは「このくそやろう」「このくそあま」(とそれに類似する台詞)で成りたっていて、暴力描写ばっかりのどうしようもない映画だけれど、泣いた。たとえばキム・ギドクの映画はほとんど会話がなく、あったとしても片方のひとが相手の言ったことをだいたい無視するので、それは会話として成りたたないけれど、むしろ「くそやろう」と「くそあま」だけで成りたたせるほうがすごいんじゃないかと思った。




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