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ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団「私と踊って」@新宿文化センター

2010.06.13(22:25)

素晴らしい海岸生物の観察素晴らしい海岸生物の観察
(2004/06)
小笠原 鳥類

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だが十月は生れて死につつある
おれは死から生まれつつある
おれは夢のなにものも生まず
易々と民衆にパンをといわない
夢みがちな季節に夢にではなく
革命の犬の深い食に飢えて
朝の終りの路ばたで売られる黄色い麺をひとりで食っている
葱の汁に浮ぶ一匹の十月の蠅を呑みこんでいる
このときおれは闘いにみちる
おれたちは家とパンを得るならば
初めて存在のおくの虚無に生れる
虚無とたたかう武器を知るだろうから
おれはなお民衆と民衆のひとりのおれに家とパンのある世界を
という叫びの嘔吐がこみあげてきた
               ――黒田喜夫/十月の心



 土曜日は、新宿で管城さんと待ちあわせた。彼女はコンビニでチーズ味のチロルチョコを買って「は! チーズとチョコの味がします!」と言っておののいていた。
 ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団「私と踊って」を見てきた。世界の終わりみたいなダンスだった。黒い帽子をかぶって黒いロングコートを着た男のひとがたくさんいた。帽子がひゅんひゅんと飛びまわり、舞台のうえのほうからひとがすべって降りてきた。だからそれは世界の終わりだった。世界の終わりがこんなふうだったらいいのになと思った。帽子はかたづけられなかったし、舞いおちる葉のいちまいいちまいもかたづけられなかった。そしてだからこそひともかたづけられることがなかった。音楽が暗い舞台のなかでしっとりと響いて、それはわたしがほとんど聴いたことのない言語からできていたので、たぶんそれはふつうに美しい音だった。かたづけられないでほしいと思った。どんなに散らばっていても、その葉や帽子たちはたぶんわたしたちの一部みたいなもので、それはたしかにもうはんぶん以上はごみになってしまったものかもしれないけれど、わたしがごみでも、かたづけられないでほしいなと思った。
 管城さんが謝罪の品々を買うというので百貨店等々をまわり、わたしは彼女がわたしがそこにいるというだけで射殺されそうなお店で買いものをしているあいだ、「わたしここにいるだけで射殺されるんじゃないだろうか」とどきどきしながら佇んでいた。目のおおきくてちいさいまるでにんぎょうみたいなものたちがいっせいにわたしを見ていた。
 いまだにどこにあるのかわからないアルタの横の喫茶店で今村さんが来るのを待った。今村さんは自転車で来た。今村さんの自転車にはシールがべたべたはってあって、サドルがぼろぼろで泥よけがこなごなになっていた。かわいそうにとわたしは思ったけれど、わたしはやさしいので黙っていた。管城さんはせっせと自転車を壊そうとしていたけれど、わたしはやさしいので黙っていた。トマト鍋を食べようかという話になっていたけれど、わたしがてきとうに調べておいたトマト鍋はこなごなに破壊され、今村さんが「ぜったいに行かないような店にいこう」と言いだしてハワイアンなお店にいった。店員がアロハなかっこうをしていた。「これはぜったいに合コン的なあれだ…」と今村さんは言った。となりの席には合コン的なセッティングがされていて、男のひとだけがワンサイドに座っていて、女のひとが座るだろうアザーサイドにはだれもいなかった。今村さんが心配していた。「幽霊と合コンしているんだよ」とわたしは思ったけれど、わたしには関係がないので黙っていた。だいたいなんの話をしたかわすれたけれど、村上春樹とか船乗りの話だったと思う。船乗り。
 管城さんは品川へ行き、わたしと今村さんはゴールデン街にくりだした。わたしは「ゴールデン街知ってるかも」と言ったけれどぜんぜん知らなかったのでわたしはうそつきだった。「8時半に妻が来る!」と今村さんは言っていたけれど、ぜんぜん来なかったので、それもまたうそつきだった。バーには女の子がひとりだけいて、フロイト、ラカン、川上未映子、という言葉があちこちの壁にへばりついていた。ウィスキーのロックを注文したら、「ロックって氷だけのやつですか」と訊かれたので「すごいぜゴールデン街!」と思った。常連のおじさんが女の子にロックやソーダ割りのつくりかたを教え、わたしと今村さんは知らないおじさんからもらったミートパイを食べていた。「すごいぜゴールデン街!」と思った。
 わたしと今村さんは東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」の話をしていた。わたしは読んでもいないのに表紙と最初の2、3ページだけ体感してぐちぐち言っていたけれど、なんとなくその小説にたいして疑いのまなざしを向けてしまうのが、たぶん、その小説がわたしにとって「批評される」という前提にたって書かれた小説にいまのところ見えているからだと思う。帯からしてつっこみ待ちのあの小説にたいしてなにか言ってしまうと、それはもう負けじゃないかというにおいがぷんぷんする。わたしはこのうちゅうでもっともぴゅあでうたがいをしらないせいじゅんなおんなのこなのでこんなことをいうんだけれど、ふつうの小説は批評されないという前提にたって書かれていると思っていて、たとえばその最たるものは綿矢りさや中原昌也かもしれなくて、彼女と彼の小説は批評をもっとも必要とされていながらどうも批評をこばむところがって、わたしはこのうちゅうでもっともぴゅあでうたがいをしらないせいじゅんなおんなのこなので、小説のおもしろさはけっきょくのところそこにあるのかなと思う。どう考えてもつっこみ待ちに決まっているジョイス「ユリシーズ」にだって、まともなひとはなにか言う気をなくすんじゃないかと思う。「クォンタム・ファミリーズ」にはどこか批評的な解があらかじめ設定されているように見える。小説を小説として文字だけをさした定義とみなすのか、あるいは小説を読みさらにひろげるという拡散までの相互行為を含んだ概念とみなすのか、わたしはデリダもロラン・バルトもテクスト論もぜんぜん知らないけれど、なんとなく、そういうことが背後にあるように見える。批評としての正しい解があって、けれどそれを模索するなかでわたしたちはもちろん正しくまちがっていって、それをテクストと呼ぶのかな。量子の座標は一般的に確率でしかあらわせない。わたしたちはミクロな物体がほんとうにどこにいるのか知覚する手段をいまだに持っていない。批評としての解があったとしても、たぶん確率的にしかあらわせないし、わたしたちはそれがほんとうにどこにいるのかたぶんいっしょうわからないんだと思う。
 11時くらいに今村さんの奥さんがふらりとやってきて、思い出横丁のほうの「アルバトロス」で3人で飲んだ。今村久美さんは顔をマッサージするふかしぎなアイテムを持っていてわたしにそれを貸してくれて、それは、これで3分間顔をぐりぐりすれば血行がよくなって一瞬だけ顔がひきしまるふかしぎなアイテムだったので、わたしはお酒を飲みながらずっと顔をマッサージしていた。となりに座っていたガイコクジンさんが「ソレナンデスカ?」と訊いてきたので「しぇいぷあっぷ!」と言っていた。「さんぷんやらなきゃだめ!」と今村久美さんは言っていたけれど、ガイコクジンさんは「ネクストタイム!」と言って軽く拒否していた。今村久美さんとわたしの距離はいままで2億3000万光年くらいは離れていたけれど、昨夜の邂逅で2キロメートルくらいは縮まったのかもしれない。

 今日は、昼間で寝ていたらTNから電話がかかってきた。TNも金曜日に寝坊したらしかった。わたしは薄笑いを浮かべられただけですんだけれど、TNは怒られまくったらしい。横浜にいるらしいので遊ぼうかと思ったけれど、営業研修なので休みが平日らしい。たいへんだと思う。
 わたしはかいしゃにほうしするいぬっころなので夕方からドトールで生命保険の勉強をした。生命保険の教科書にはすごいことが書いてある。


 我々はこのような無数の危険と闘い、これを克服しようと努力している。労働災害や公害を防止するための機械設備の開発、諸災害によってもたらされる経済的本質を補填するための保険制度の発展、社会不安回避のための社会保険・社会保障、景気変動に対する金融・財政政策を通じてのコントロール技術、さらには国際紛争を解決するための国際連合などの諸機関による国際的利害の調整の努力等、人類の安全保障を求める努力は続く。それは、克服が不可能であり、避けられぬ必然・運命とかつては考えられていた危険を、人間の合理的知性と人間性に基づき、制御しようとする努力である。このような危険対策の一手段として保険は位置づけられる。


 保険がこんな人類レベルの概念だったなんて…。保険は危険(リスク)を数値化することによって成りたつ概念で、それを日本に紹介したのはかの福沢諭吉、彼の弟子によって日本最初の保険会社明治生命が誕生した。勉強していくといろいろおもしろいことが書いてある。契約後一定期間内の自殺には保険金がしはらわれない、戦争・その他の変乱による死亡の場合は保険金がしはらわれない。けれど、それらのしはらわれない根拠にはきちんと生命保険の理念、考えかたがじつは横たわっている。病気のひとは保険にはいれなかったり掛け金が高かったりするけれど、それもいじわるとか会社が損するぜということでもなく、理念で論理的に説明がつくものだ。理念・理念・理念。ふむ。
 それから、小笠原鳥類「素晴らしい海岸生物の観察」を読んだ。もうこれは読むものですらないよなと思った。わたしはほしゅてきでじっけんてきなぶんがくはてんでちっともわからないので、じつは、読めない本よりは読める本のほうが好きだけれど、それにしてもなんだろうなと思う。


 暗い人形のガラスの棚は、のように数年間放置され、コンクリートも生きた魚礁・魚醤、腐敗水族館・あえかなくさっていておかしい、やわらかくくる緑色の寒天ゼリーみずうみ、湖・完全水槽、紫色の湖・水槽全集緑色の怪物という。
          ――小笠原鳥類/腐敗水族館



 これはまだいいけれど、「(私は絵を描いていただけだ。/船に遠隔操作の時間差爆弾を仕掛けていたのではない)」という作品なんて書きうつす気すらしない。




コメント
わたしは村上春樹は短編集を含めて5冊しか読んでいないので、船乗りのはなしをします。
「こないだ、すげえ誤植を見つけたんだ!『ダニエル・デフォーの「宝島」』だってさ!」
「ふーん。でも、『宝島』のラストで島に置き去りにされた海賊がいたから、デフォーはそいつらのこと書いたんじゃない?」
【2010/06/17 16:58】 | 上田洋一 #- | [edit]
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