スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

ある愛ではないかたち、ある愛のかたち

2010.07.02(23:38)

やっと1枚目(紙ジャケット仕様)やっと1枚目(紙ジャケット仕様)
(2007/08/30)
友川かずき

商品詳細を見る

 大江麻衣の問題、思潮社のついったーでの連詩、高橋源一郎が「『悪』と戦う」に関する連続ついーと、などなど、さいきん、わたしのついったーのなかで文学に関する話題があまりつきないけれど、今日、劇的にわたしはそれに参画しないようにしよう、と思った。それは、たとえば、思潮社が行っている連詩がわたしにはまったくおもしろいとは思えないことがきっかけで、わたしは「高橋源一郎がついったーで自作について語っている」「だからすごい」という安易な構図にはまりたくはない、と強く思った。自慰は自慰だと思った。たとえそれが孤独な部屋のなかで行われようと、世界中のひとびとの眼前で行われようと、それが自慰ならば自慰じゃないかと思った。大江麻衣について、どこかの新聞が「ついったーが登場させた詩人」として記事にしていたらしい。そうじゃないよとわたしは思った。それは高橋源一郎が言ったから登場できただけで、問題にするならば「なぜ本で発言する高橋源一郎が偉大ではなく、ついったーで発言する高橋源一郎は偉大なのか」ということだと思った。
 わたしはわたしが文学に媚びていると思う。ついったーで詩人が話題になったことで、たとえば詩の世界のいったいなにがどう変わったのか、わたしにはまるで見えていない。「話題になった」と言っているのは「話題にしている当人だけ」にしか見えない。だから、わたしは「いままで芸術に媚びていた芸術がついったー(的なもの)に媚びはじめただけ」だと思った。芸術が芸術になるには、わたしのようになってはいけない。わたしが芸術にあこがれを抱いたのは、それが決してわたしのようではなかったからだといまでは思う。いま芸術が行っていること、行おうとしていることは、わたしにはどうしても権威の持ちかえに見えてしまう。ゴダールやタルコフスキー、エリセなどを過剰に礼賛していたわたしがその反動として「ドラえもん」を過剰に褒めるように、そういうことが安易に行われてしまうならばだれかがそれに疑問を抱くべきだと思った。詩はなんにも変わっていないじゃないかと思われてもしかたがないと思う。独裁者はその国で市民を殺し、市民に信用されなくなったらとなりの国に行き、独裁し、また市民を殺すんだろうか。権力を左手から右手に持ちかえただけで市民が安心をするのなら、頭がわるいのはやはり市民だろうと思う。
 会社の研修で、ある美容室が「すばらしい職場」の例として紹介された。その美容室では離職率ゼロ、スタッフ同士のなかがよく、それゆえにお客様ひとりひとりのためにこころからサービスをしていた。地域の清掃活動ボランティアに精をだし、誕生日にはサプライズでケーキを送り、社長は毎夜スタッフと食事をともにしていた。ミーティングでは道徳的な話を読み、スタッフが涙を流し、社長は「泣けるようになってから売上が上がる」と言った。女性スタッフは「手荒れをしてよかった」と言った。「新しく入ってきたスタッフが手荒れをする気持ちをわかってあげられるから」。それは洗脳じゃないかとわたしは思った。彼らはサリンを撒くかわりにお客様へのサービスを撒きちらしているだけだと思った。撒くものがちがえばそれでいいんだろうか。
 わたしは、ほんとうに、わたしとわたし以外のものの関係をずらしたいと思った。権力と権力があるならば、わたしはそのふたつの関係をことりの音をたててそっとずらしてあげたいと思った。わたしがだれかを愛するならば、たとえばそのだれかを愛さないというやりかたでだれかを愛したかった。権力を捨てさることがべつの権力を持つということと等しいのなら、権力なんて捨てなくていい。権力を捨てるたびに醜くなるのなら、最初の醜さを抱えたままでいい。その醜さを抱えたまま美しくなっていくというやりかただけをいまは信じたいと思う。

   ◇◇◇

 だれかが、「多数を占めているのはそれがなんであれそれだけで害悪だ」(言いまわしはぜんぜんちがったような気がして、それによって意味もぜんぜんちがうと思うけれど、もう覚えていないので曲解して覚える)ということを言っていた。詩は、限定された領域で多数を占めていながら「詩は死んでいる!」というふりをしているのかもしれないと思った。わたしが、最果タヒさんやイシダユーリさんのついーとを好きだと思うのは、彼女たちが限定された領域のなかですら多数から背を向け、それでいながら、少数にすらなっていないように見えるかもしれない。多数が大衆ではないように、少数も個人ではない。




コメント
確か、TRPG「トーキョーN◎VA」のルールブックか何かにこう書いてありました。「生き残ったのは反抗したやつでも屈服したやつでもない。死んだふりしてたやつらだけさ!」と。
それはともかく、先日ようやく映画「パレード」を観ることができました。たぶん、「ミレニアム」よりかなりイイと思います。
【2010/07/06 17:35】 | 上田洋一 #- | [edit]
> 確か、TRPG「トーキョーN◎VA」のルールブックか何かにこう書いてありました。「生き残ったのは反抗したやつでも屈服したやつでもない。死んだふりしてたやつらだけさ!」と。

それは きっと
「生きのこったとしてもべつにいいことなんかないぜ」
という 貴い教えです。
【2010/07/07 21:58】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/838-23a77d4f
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。