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モダンスイマーズ「真夏の迷光とサイコ」@青山円形劇場

2010.07.20(21:12)

脳髄工場 (角川ホラー文庫)脳髄工場 (角川ホラー文庫)
(2006/03)
小林 泰三

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 わたしが文章を書くうえで思うのは、やっぱり、どうしたらそれが実現されるのか、ということだと思う。文章なんてただの文章だし、映像なんてただの映像だ。虚構だ。それでも、それが現実として立ちあがってくるかどうかは、それがフィクションであるかノンフィクションであるかは関係ないと思う。カポーティ「冷血」で描かれたペリー・スミスが実際に存在していたとしても、していなかったとしても、それはわたしには関係ない。本のなかのことであっても、一般的に言われる現実のなかのことであっても、わたしの意識に働きかけてくるものだけが現実だと思う。一般的に言われる現実においてそれがたいしたことがないのなら、それはけっきょくたいしたものではないように思う。たいしたことがないものはたいしたことがないものだから、それが一般的に言われる現実だからといって、過度に大事にする必要はないと思う。この世界にはきれいなものやたのしいものはあんがいたくさんあって、それだけでいい。虚構は現実に遠慮する必要なんてない。わたしは現実のなかでうつくしいものを見つけるためのなにかのきっかけを本や映画から見つけたように思う。それは醜いことだと思った。わたしはいまもってそういうありかたにいったいどう相対していったらいいのかわからないけれど、べつにこまることではないよと最近は思う。

 金曜日は有給休暇をとってアテネ・フランセまで行ってカザフスタン映画を見てきた。ちんぴらみたいな派手な色づかいな男がいるなと思ったら森山さんだった。セルゲイ・ドヴォルツェヴォイ「ハイウェイ」、ラシッド・ヌグマノフ「僕の無事を祈ってくれ」、若手監督短編集を見た。「ハイウェイ」は若いひとが鉄球を歯で持ちあげておじいさんがその鉄球をハンマーでがっちんがっちんうったり、「鷹だ!」と言って全力で鷹を捕まえにいって「いやいや鷹がそんなかんたんにつかまるわけないじゃん」とか思っているあいだにあっさり捕まえたり、トラックは毎回毎回ぐるんぐるんまわさないとエンジンがかからない謎仕様なそういう映画で、とってもおもしろかった。色がうつっていたから、それはきれいな映画だった。色がうつっているなら、それだけでそれはきれいな映画だと思う。ラシッド・ヌグマノフ「僕の無事を祈ってくれ」はおもしろかったけれどなにがおもしろかったのかわすれた。だいたいいつもなんでも忘れちゃう。若手監督短編集は色がうつっていなかったので寝ていた。

 土曜日は上野で藤野さんと待ちあわせて、東京芸術大学大学美術館で「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い 交錯する夢と前衛」を見てきた。「シャガールいちばん好きかもしれない」と思った。「ロシアとロバとその他のものに」が好きで好きだと思ったからずっと見ていた。いっぱい黒くて、山羊はぴんく色で世界にたいしてあらゆることを考えていなさそうな顔をしていて、女のひとの首は飛んでいた。なんで女のひとの首は飛んでいるんだろう、と思わないでずっと見ていたから、女のひとはたぶん首がついていることがへんなんだろうと思った。「村の魂」も「日曜日」も「虹」も「イカルスの堕落」も、なかのひとはみんな首がきゅいきゅいまわって頭がおかしかった。シャガールはあんな温厚そうな顔をしているくせにあんな頭がおかしい絵を描いてずるいなと思った。どんなに牧歌的な絵でもそれに愛が宿っているようには見えなくて、でも見えるような気もして、あんな絵を描いて「これがわたしのしあわせだ」と呼べるならわたしはシャガールの絵の具になりたいよ。8月は上野動物園が夜8時までやっているときがあって、わたしは上野動物園で動物が見たいなと思った。北海道に行ってごはんを食べた。わたしはさまよえる仔羊の肉を食べた。おそらくひとびとがさまえよえる仔羊の肉を食べないのはさまよえる仔豚のお肉のほうがおいしいからだろうと思った。藤野さんは階段を見つけては「あれはいい階段ですね!」と言っていたから階段にくわしいなあと思った。モダンスイマーズ「真夏の迷光とサイコ」を見た。YOUがかわいかった。YOUが「あなた、ちょっと浮いてるわよ」と言っていたからどきっとした。小説家のひとがかわいそうだったから、小説家のひとがかわいそうだなと思った。演劇を見ていると、たまに役者のいらいらばかりに気をとられているように感じた。「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」も、わたしはケンタくんとジュンくんがいらいらしあっているところがいちばんおもしろく感じた。そんなふうなひとのいらいらばっかり見て、感じて、それがリアルだと思って、だからどうなるんだろうと思った。いらいらしたくないなと思った。すこやかに、おだやかに、らっこのようにむうむうと生きたいよと思った。藤野さんとコーヒーを飲んで帰った。うすうすわかっていたけれど、わたしはだれかと会ったあとにいつもいちばん絶望する。わたしはだれかと会ったあとにいつもいちばん死にたくなる。わたしはいつもじゃないいつもの時間だれかと会いたいなと思うけれど、だれかと会うということは、すごくすごく、こわいことだ。
 
 日曜日は応用技術者試験の勉強をした。ぜんぜんわからないので、びっくりした。ドトールでむーむーうなっていると、会社のお友達から「いまから飲むけど来るー?」とメールが来たので「行くー」と言って行った。お酒をいっぱい飲んで、べろんべろんになって、そとにでるとお祭りをやっていた。すこし目をはなした隙に友達たちはレモン味のかきごおりを買っていて「なにそれこわい」と言った。ぼっとしていると、9人いたわたしたちはいつのまにかいなくなっていて、5人になっていた。わたしはなにかの話をしていたけれど、わたしはなんの話をしていたのかわすれてしまった。ひとがいなくなっていった。黄色や桃色の光がにんげんのようにわたしたちからあっけなく遠ざかっていって、つぶれた黒い道路ばかりがいつまでもわたしたちのまえに横たわっていた。

 月曜日は夕方から電車にがっつんごつんと揺られながらユーロスペースで大森立嗣「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」を見た。わたしは(中略)らっこのようにむうむうと生きたいよと思った。それでも、松田翔太くんは怒鳴っているときがかっこうよかったし、キャンプファイアの炎を後ろにして大魔神のようにぼわっとなって血だらけになっているほうがかっこうよくって、でも、わたしはそれは暴力だからやめようよとたまには思うよ。いやだなとわたしは思うよ。どうして暴力じゃないとじんとできないんだろうな。いやだと思うよ。わたしはおもしろいけれど、いやだと思うよ。だって、怒鳴られたくないもん。
 そのあとヒューマントラストシネマ渋谷で見たジョージ・A・ロメロ「サバイバル・オブ・ザ・デッド」がうつくしいのは、その映像にうつっているあらゆる暴力があらゆる暴力ではないからだと思う。この映画のひとたちはとすとすと歩きながらゾンビの頭を銃でぱっすんぱっすん撃っているけれど、そのうつくしさはなんだろうと思うよ。彼らはまるでバイオリンを弾くみたいにゾンビを殺して、ゾンビはバイオリンが弾かれるようににんげんに殺されていって、彼らはシャガールが絵筆をにぎるようにゾンビを殺していく。ゾンビを殺せば殺すほど彼らはゆっくりきれいになっていく。松田翔太くんが「抜けだすんだ、抜けだすんだ」と蝉の幼虫みたいなことを言って地面に潜っているあいだ、この映画のひとはゾンビをぴーしゃらぴーしゃら殺しながら聖的な衣をまとって月まで高くのぼっていく。ジョニー・トー「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」もそういう映画だ。ひと(やゾンビ)を殺すことを暴力にしてしまうのはそこでカメラを構えているろくに名前もないひとじゃないかと思う。この映画で模索されている「正しいか」、「正しいのか」という問いがこうまでわたしのこころに無意味にひろがっていくのは、ラストの月光のうつくしさだと思う。

 小林泰三「脳髄工場」におさめられている「C市」がよかったな。わたしが新海誠だったら次はこれを映画化するのに。わたしが押井守だったら次はこれを映画化するのに! 世界よ、わたしが押井守じゃなくてざんねんだったな! ぷーん!
 あ、オルセー美術館展行きたい。




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