スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

前もって生きられた人生

2010.07.25(21:46)

ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967 (リュミエール叢書)ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967 (リュミエール叢書)
(1998/06)
ジャン‐リュック ゴダール

商品詳細を見る

 木曜日、会社でだらだらと仕事(研修)をしていたらSOさんからわたしとCKさんに社内メールが来ていて、「基本情報の午後問題教えて! 桜井宅希望!」という内容だったので、わたしはびっくりした。会社帰り、待ちあわせをして、てくてく、わたしの家まで行った。わたしは一生懸命教えようかと思ったけれど、問題の難易度が高すぎてよくわからなかった。初見じゃ解けないし、解答もなかった。だから、ぱっぱぱっぱ飛ばして、アルゴリズムを教えた(あるごりずむならがんばればわかる)。わからないわたしだって受かったんだから、わからなくても受かるよと思った。途中で手持ちぶさたになって、わたしはお皿を洗ったり、煙草を吸ったりしていた。駅まで送っていく道々、「鎌倉行きたい」ってふたりが言っていた。「江ノ島って避暑地やろ?」とSOさんが言った。ぜったいちがうと思ったから、CKさんとわたしは「ぜったいちがう」と言った。

 土曜日、お昼まで寝ていて、午後からもそもそと家のなかを這いずりまわって、それから、アテネ・フランセまでジガ・ヴェルトフ「キノプラウダ」を見にいった。まんぱんだった。アテネ・フランセがまんぱんになることがありえるのか、と思ってびっくりした。モノクロの、世界でいちばん美しい映像がうつっていたので、わたしはびっくりして、それから眠った。わたしはサイレント映画は全部寝る気で見にいくので、たくさん眠れて、よかった。ずっと、きれいだった。

 日曜日、早稲田松竹に行こうかと思ったけれど、元気がでなくて、太宰治「きりぎりす」を読んで、クリーニング屋さんに行って、図書館に行って、それからドトールで生命保険と応用情報技術者試験の勉強をして、「ゴダール全評論・全発言Ⅰ」を読んだ。ときどき、ゴダールだけが小説についてなにかしゃべっているように見えるときがある。


 ぼくには人々がなぜシナリオなどというものをつくるのかがわからない。というのも、だれもあれを読んでいないからだ。俳優たちが自分の台詞は何行あるのか、自分はなにをすればいいのかを知るためにほんの少し読んでいるだけだからだ。

 人々も気づいているように、かつて映画と認められていたような映画、映画館で上映されるたぐいの映画は今では姿を消しつつある。そうした映画は今では、テレビとともに別のなにかにかわってしまったんだ。そしてその別のなにかを見つけ出す必要があるわけだ。でもその《別のなにか》は今のところは、テレビにほかならないものによって封じこめられてしまっている。だからこそ、だれも映画をつくる別のやり方をテレビのために考え出そうとはしなかったわけだ。

 ぼくが有名になったのはただ単に、ぼくが、ほかの映画作家たちがつくれるようになりたいとは思わなかった映画、つくりたいと思うことができなかったような映画をつくってきたからだ。連中はぼくの映画をとりわけ、自分がつくらなかった映画として見ていたわけだ。だからそれはぼくの映画じゃなく、連中の映画だったんだ。連中はぼくの映画を見ながら自分の思いを晴らしていたわけだ。


 ここで示されているのは、とりわけわたしたちが、ものごとの表面を見るやりかたとものごとの内面を見るやりかたをとりちがえてしまいながら、そのことに気づいていないというおそろしい事実だと思う。ゴダールの言っていることはたんじゅんにすぎてしまう。たとえば、わたしたちは「なにか文章が書いてあって、お話になっていて、しかもそれがフィクションらしいもの」があれば「小説だ」と思ってしまいがちだけれど、それは「なにか文章が書いてあって、お話になっていて、しかもそれがフィクションらしいもの」でしかない。わたしが「どうしてそうなってしまうんだろう」と思うのは、ときどき、書いているひとまでもが「俺は小説を書いている」と思いこんでしまうことだ。書き手はたぶん小説を書いているつもりで小説を書いているから、それが小説ではなくても、「これが小説だ」と思いこんでしまう。どうしてそうなっちゃうんだろう。わたしは、たぶん、そのひとがその小説を読んでいない(自分の書いている小説すら読んでいない!)ということだと思う。そのひとが自分の書いているものが小説だと思いながら小説を書くとき、そのひとは小説の外面ではなく小説の内面しか見ていない。だから、いつまでたっても、いつまで書いても、そのひとは「自分の小説」ではなく、「自分の小説と名づけた幻想」しか読むことができない。ゴダールのシナリオに関する言及は、ただたんに見たままを語っているだけだ。シナリオがあればだれだってそれを読むと思う。けれどゴダールは「俳優がそれを見て自分の台詞が何行あるか確認しているだけだ」と言う。わたしは小説をシナリオでなければいいと思う。わたしはわたしをシナリオを読む俳優でなければいいと思う。でも、そういうことはいつもいつもむつかしい。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/842-ce7f8b5d
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。