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視線、心臓の鼓動

2010.07.27(22:44)

死の舞踏(サン=サーンス:交響詩集)死の舞踏(サン=サーンス:交響詩集)
(1998/07/29)
デルヴォー(ピエール)

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 ゴダールの話の続きとして、わたしは「小説におけるプロットだって同じじゃないかと思う 書き手は書くまえにプロットを見て『次はこういうことを書けばいいのか』と確認しているだけじゃないだろうかと思う そういうとき その小説はだれが書いていることになるんだろう」と書いた。それから、「福間健二は『わたしは詩を書く機械でありたい』というようなことを言った 福間健二は自分のねじを巻いているんだろうか おおくのひとは自分のねじを巻くふりをしながらプロットのねじを巻いているだけなんじゃないだろうか」と書いて、最後に「『自分の書いたプロット』と『そのプロットにそって書かれるはずの小説』にいったいどんな関係がある? 関係があるなら なぜそのプロットはその小説に付加されて出版されない? なぜ作家はプロットではなく小説を出版することをあたりまえのように選択する?」と書いた。
 たとえばジョン・アーヴィングがプロットをたてているのかどうかわたしは知らないけれど、彼は「書くまえから物語はできあがっている」と言っていた。「書いている途中に、『さあ、次はどうしよう』なんて考えたくない。文章ひとつひとつの精度を高める以外のことにとらわれたくない」と言っていた。フランツ・カフカの小説は、わたしにとってプロットと小説そのものが同時に生成されていくように見える。ほとんどすべての文章が「書かれたもの」としてわたしのまえに現れてくるのにたいし、カフカの文章は「書かれつつあるもの」としてわたしのまえに現れてくるように思える。だから、カフカの小説は終わらないのだと思う。カフカの小説を読んでいると、ときどき、次のページにほんとうに文章は書かれているんだろうかと思う。「城」の終わりは終わりではないと思う。あれはただ、次のページになにも書かれていないだけだと思う。「できごとと文章が同時に生まれること」を一般的にわたしたちは「現実」と呼んでいる。そしてその反対に、「文章のまえにできごとがすでに生まれていること」をわたしたちは虚構と呼んでいる。映画を見て感想を語りあうひとびとにとって映画は虚構だけれど、その感想だけはいつでも現実だ。数秒前に送信されたメールを虚構と呼ぶのは数秒という時間差に由来しているだけだ。わたしたちはおそらく「書かれてしまったもの」を信じることすらできていない。文章を書くひとは、どうして書かれたプロットにそってなにかを書こうとするんだろう。どうしてそのプロットをたやすく信じようとするんだろう。わたしは現実をプロットとして日記を書く。日記が書かれるとき、わたしは日記だけは信じるけれど、わたしの「過去のできごととしての現実」を信じていない。わたしは、「過去のできごととしての現実」を信じようとして日記を書いているからだ。日記に書かれるわたしの考えや感情は現実としてのわたしの考え(だったこと)や感情(だったこと)とは関係していない。ただできごとだけが文章という「表面」で砕けかけた骨のようにかろうじてつながっているんだと思う。プロットに忠実であろうが、プロットから脱線しようが、ひとが小説を書くとき、そのひとはプロットを信じようとしているだけなんじゃないだろうか。「その小説になにが書かれているか」なんてわたしにとっては関係ない。わたしが問題にしたいのは、「その小説に書かれていることによっていったいなにが現れてくるのか」ということだと思う。文章は再生ではない。蘇生でもない。いうなれば祈りなんだと思う。

 わたしは一般的に言われている純文学が好きで、一般的に言われているエンタメ小説を「ごみくずだ!」と言って批難していたことがあって、それから「それはいかんいかん」と思って「エンタメにはエンタメのよさがあるんだ!」とむしろエンタメを舐めきったことを思いはじめて、ふっつり黙ろうとしていたけれど、さいきん、それをいうならもう「エンタメのほとんどはくずだ!」と言ってしまったほうがいいんじゃないかと思った。たとえば、ロメロ「サバイバル・オブ・ザ・デッド」を「純文学だ!」と言うことは恥ずかしいことだけれど、恥ずかしいと言われるほどには恥ずかしいことじゃないんじゃないのかなと思った。「エンタメにはエンタメのよさがある」と言うことじたいはべつにいいけれど、わたしはエンタメを読まないんだから、たぶん、エンタメにはエンタメのよさなんてないんだと思う(だって読まないんだから)。言いかたがむずかしいけれど、わたしにとってわたしが読もうとする本はすべておもしろい本で、その本がおもしろいかつまらないかは本を読みはじめて以降にゆっくりとあいまいに決まるんだと思う。「おもしろいかおもしろいかわからないから読む」んじゃなくて、「おもしろいと知っているから読む」んだと思う(べつにその本がおもしろいかどうかたしかめるために読んでいるわけじゃないから、それでいいと思う。だいたい本なんて読んでいる途中や読みおわったあとにだっておもしろいのかおもしろくないのかよくわからないじゃないか)。だから、それで、わたしはエンタメを読まないので、エンタメはたぶんおもしろくないんだろうと思う。


 かりに演出が視線だとすれば、編集は心臓の鼓動である。そして演出と編集の双方の特性は、予見するということである。といっても、一方は空間のなかで予見しようとし、もう一方は時間のなかで予見しようとする。かりにあなたが通りである若い娘に目をとめ、その娘を気に入るとしよう。あなたはその娘のあとを追うべきかどうかためらう。そしてそれはほんの一瞬のことである。このためらいはどのようにして描き出すべきなのか? 《彼女にどのようにして声をかけるべきなのか?》という疑問には、演出が答えるだろう。しかし、《ぼくは彼女を愛そうとしているのだろうか?》というもうひとつの疑問を明白なものにするためには、あなたはどうしてもこの二つの疑問とともに生じる、そのほんの一瞬を重視しなければならなくなる。
――ジャン=リュック・ゴダール

 




コメント
週刊雑誌に連載されている漫画の多くが「今、書かれつつあるもの」のような気がします。読んでいるかぎりでは次々週のプロットを作って来週掲載分を描いているとは思えないのです。それに、16.7パーセントぐらいの漫画の終わりは終わりじゃありません(いわゆる打ち切り)。
【2010/07/29 16:20】 | 上田洋一 #- | [edit]
え もっと何週ぶんもためこんでいるものかと思っていましたが
そのぎりぎりっぷりが たまらないですね。
漫画家の多くはマゾなんですね。
終わりどころがよくわからず
だらだらとよくわからないまま続いているだけの漫画も多くあるように思えます。
カフカを地でいっているわけですね。すごいと思います。
【2010/08/06 21:12】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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