スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

友達を殺してまで。

2010.08.09(02:53)

友だちを殺してまで。友だちを殺してまで。
(2010/03/10)
神聖かまってちゃん

商品詳細を見る

「神聖かまってちゃんがすごい」とかつぶやいていたら友達(というか藤野さん)に「ボーカルの女の子がセーラー服で踊ってますよ!」と言われて、見て、「たぶんわたしの人生世界でもっともむだな5分間をすごしたな」と思って、友達(というか藤野さん)に「かわいいものにめがないから!」とか言っちゃってばかみたいだな、と思って、神聖かまってちゃんを聴いていたらこんな時間になってしまって、暇だからずっとこうやって文章を書いているんだけれど、神聖かまってちゃん「友達を殺してまで。」はここ数年聴いたアルバムのなかでいちばんいいアルバムだと思うけれど(ここ数年聴いたアルバムのなかでいちばんいいアルバムは数十枚あるけれど。でも、そういうのってあたりまえだと思う。いちばん好きなアルバムなんてなかった。いちばん好きな曲も、いちばん好きな映画もいちばん好きな本もなかった。だれもおんなじに見えてしかたなかった。だれもかれもが「ちがう」という意味においてすら同じに見えた。いつも同じ言葉しかなかった。だれにたいしても同じ態度をとってだれにたいしても同じ言葉をかけた。何人かはすぐにはなれていったし何人かはそこの場所にとまどっていった。だれかがとどまっている場所を「自分の居場所」だなんて呼ぶことは不埒だと思った。そこはだれかがとどまっているかぎりそのだれかの場所にちがいなく、わたしがそこにはいっていくときはいつもドアをノックしなければいけなかった。こんこん、こんこん。ノックで開かれるのは空間だけだったのに、わたしが手にしたのは「いつもそこにいる権利に似たなにか」だけだったのに、ドアをノックすることでわたしはいつもその時間までもを奪おうとしていた。本や映画や音楽はだれかのいる場所を訪うやりかたでしかなかった。いつもそうだった。「権利に似たなにか」が明確化されないかぎりわたしはいつもどうしてだれかといっしょにいるのかわからなくなってしまうから、本や映画を携えてうろうろしている。まわっていればいいんだよ。だれかが犬を放ってくれるからさ。森を追いかけるふりをしていればらくに生きていられるじゃないか。生きものたちが生まれる場所で踊ってばかりいるから、まわって、まわって、そんなドリルみたいな姿になっちゃって、さ!)、かりにわたしが音楽を擁護したくなるときがあるとしたらこんなときだろうなと思って、わたしは、それがロックであるならばロックでなければいけないと思っているひとがときどきおかしいと思って、だって、それはいつでも言葉の問題じゃないか、って思って、言葉なんてありふれていて、どうでもよくって、だって、唯一の役割がなにかの代替となることだなんてあわれだから、あわれすぎるから、わたしは音楽を聴いても「歌詞がいいね」なんてぜったいに、たぶんぜったいに言わないと思うけれど(だって聴いていないから)、わたしは本を読んでも「文章がいいね」なんてぜったいに言わないよ、音楽や映画や本にはたしかになにかがあって、けれどかりになにかあるとしたら、それは必ず「言葉以外のなにか」だと思う、よ、ほとんどの場合音楽や映画や本にはなにか言葉があって、言葉についてなにか言いたいときどうしてかわたしは言葉を選んでしまうから、わたしは言葉を使うけれど、ほんとうはそれはひどくまちがっていたことで、神聖かまってちゃんを言いあらわそうとするときに中村一義と言うのはかんたんだし、戸川純と言うこともかんたんだけれど、戸川純を聴くようなやりかたで神聖かまってちゃんを聴くならわたしはたぶん神聖かまってちゃんを聴くふりをして戸川純を聴いているだけだし、もっとわるいことに、わたしはたぶん神聖かまってちゃんを聴くふりをしながら自分の声を聴いているだけだろうって思って、「神聖かまってちゃんがすごい!」と言うのはわたしの場合「神聖かまってちゃんがすごいと言える俺すごい」という意味をたぶんにふくんでいて、だから、どうしてわたしはこんなことになっちゃうんだろうなっていつも思っていて、それはぜんぶぜんぶ同じことで、他人を見てはどうして「~~が好き!」とかんたんに言うことができるんだろうなって思ってばかり、で、だから「~~を好き!」と言うのはほんとうにはかんたんなことではないけれど、そのかわりの言葉を探してそうやってつくられた言葉を「文学だ!」と呼ぶことはきっと「~~を好き!」と呼ぶこととほんとうには変わっていなくて、だったら、「~~を好き!」と言うことはむずかしいだろう、と思う、ときどき、実際にいま会っていないひとたちすべてがばかに見えてたまらなくなる、うえから見下ろすようなやりかたでばかに思うのではなくて、したから見上げるようなやりかたでばかに思う、新しいとか古いとか、ロックとかポップとか、本とか映画とか、ほんものとかにせものとか、いったいそれになんのちがいがあるんだよと思う、求めたってなんにも手にはいりはしないのに、ほんとうは求めていないくせに求めているふりをしたいがためにそれに名前をつけてばかりいてわたしはばかなんじゃないかと思う、どうしてわたしはなにもかもがわかるようなりかたでなにもかもがわからないやりかたをしているんだろう、というようなことは神聖かまってちゃんとはべつに関係ないけれど、あと1ヶ月早く神聖かまってちゃんを聴いていたら、来週のミドリとの対バンまちがいなく行ったのにな、とは思った。パンかじって寝ます、たぶん、そろそろわたしは死ぬんだと思う。なんとなく。なんとなく死ぬんだと思うということは死なないということだと思う。だから、ときどきみんな死ななすぎじゃないかと思う。音楽聴いたって死なないだろう。わたしは死なないよ。ざんねんだな。わたしってば、いつもざんねんなふりをしているな。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/847-d1c1e62c
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。