スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

われわれはひとにとって食われたりしないようにするために、他人の意識を目覚めさせなければならない。

2010.08.13(22:40)

Trampin\'Trampin'
(2004/04/26)
Patti Smith

商品詳細を見る

「僕はすでに敗残者なんです」と言ったことがあった。「そんなことを言わないでください」と言われたことがあった。銃で撃たれた兵士のようになりたいと思う。人生はいっかいきりというだけですでに失敗している。文章はつねになにかをやりなおしているだけにすぎないと思う。しかも、それは成功を求めるふりをしながらべつのやりかたで失敗しようとしているだけにすぎない。わたしのための文章はつねに他者によって書かれる。だからそれは失敗だと思う。ゴダールが語るならわたしは語らなくていい。語らなくていいといういってんだけで語られるなにかがある。そう思い、それをまちがいだと知りながら語られるなにかがある。なくてもいいけれど。
 古代スパルタでひとりの少年が会食場から狐を盗んだ。彼はマントのしたに狐を隠しもっていた。狐は爪や歯で少年の身体を傷つけつづけた。その少年はついに狐を手放すことなく、爪と歯に傷つけられて、死んだ。

   ◇◇◇
 
 映画をつくるやり方はいくつかある。ジャン・ルノワールやロベール・ブレッソンがするように、音楽をつくるようにつくるやり方。セルゲイ・エイゼンシュタインがするように、絵画をつくるようにつくるやり方。シュトロハイムがするように、サイレントの時代にトーキーの小説を書くようにつくるやり方。アラン・レネがするように、彫刻をつくるようにつくるやり方。そしてソクラテスがするように、つまり私が言いたいのは、ロッセリーニがするようにということだが、ただ単に哲学をつくるようにつくるやり方。要するに、映画は同時にすべてでありうる、つまり裁く者であると同時に裁かれる者でもありうるということである。
 誤解はしばしば、忘れられているこの真実から生じることになる。そしてたとえば、ひとはだれもモーツァルト下手な画家だなと言おうとしたりはしないものだが、それでもルノワールに対してはそうした非難があびせられることになる。ひとはだれもジャコメッティはへたな小説家だなどと言おうと考えたりはしないものだが、それでもレネに対してはそうした非難があびせられることになる。

 若い人たちは映画づくりをすること一本の映画をつくることとを混同してしまっている。自分が夢に思い描いている映画をつくるというのは決してできることじゃない。フェリーニにもだれにもできることじゃないんだ。今日では、自動車をつくりたいと思い、自動車についてのアイデアをもってもいる男が、ルノーなりフォードなりシトロエンなりにそのアイディアを受け入れさせ、その自動車を組み立てさせるというのはきわめて難しいことであるはずだ。でもわれわれは自分にこう言い聞かせなければならない。ルノーの労働者にとっては、日々の生活から抜け出そうとしたり自分の世界を広げようとしたりすることは、映画が好きな若い学生がそうしようとする場合よりもずっと難しいことなのだ、と。そしてそれは、映画の世界には階級闘争というものがないからなんだ。

(劇作家の)ギトリーは映画を撮ったわけだが、それと同じようにブーレーズがなぜ映画を撮ろうとしないのかぼくにはわからない。あるいは、彼の音楽なりストラヴィンスキーの音楽なりを使いたい場合は、その映画そのものをかれらにつくらせるべきなんだ。ぼくはストラヴィンスキーのところにぼくのために伴奏音楽をつくってくれと頼みにいったりは決してしないはずだ。ぼくに必要なのはできのわるいストラヴィンスキーなんだ。というのも、かりにできのいいストラヴィンスキーをつかうとすれば、ぼくが撮ったものはどれもみな、なんの役にも立たなくなってしまうからだ。

 ビュトールが文学でしていることを映画でしようというわけじゃない。あれは映画ではあまりに容易にできることなんだ。作家たちはこれまでつねに、白い紙のうえで映画をつくろうという野心を抱いてきた。すべての要素を配列し、思考にそれらの要素を次から次へと渡りあるかせようというわけだ。でもそれは、映画ではきわめて容易にできることなんだ! 『気狂いピエロ』のなかでベルモンドが言っているのとは反対に、ジョイスは映画には関心をもっていなかった。それでも、サイレント映画はジョイスと同じくらい遠くまで行っていたんだ。われわれはサイレント映画が獲得したものの大部分を失ってしまった。そしてサイレント映画は、今になってやっと再発見されはじめている。それというのも、人々が素朴さの方にまいもどりつつあるからだ。それにまた、トーキー映画が、つくり出された当時もっていたような影響力を失いはじめているからだ。偉大なサイレント映画というのは、ある種の出来事にある種のスタイルを適用するといったものじゃ少しもなかったんだ。ぼくの考えでは、映画はより詩的なものにならなければならない。そして詩そのものも拡大されるべきなんだ。

ル・クレジオ でもあなたは、どたん場になってもまだ、事がどのように進むことになるのかが少しもわからないのに、それでも紙をとり出して書きはじめられるのですか?
ゴダール そう、ぼくが書くことができないのはまさにそのためなんだ! ぼくがこれまでずっと、フローベールに心をうたれてきたのは――彼が書くことによって味わった信じられないような苦しみに心をうたれてきたのはそのためなんだ。彼はまず、《空は青く晴れわたっている》と考える。そしてそう書く。ついで三日間、そのことで悩みつづける。《空はどんより曇っている》と書くべきではなかったのか、あるいは《空は》ではなく、《海はどんより曇っている》とすべきではなかったのか、いや、《曇っている》ではなく、《曇っていた》にすべきではなかったのか……などと考えつづける。ついで結局はこう書く……
ル・クレジオ ……《空は青く晴れわたっている》と。
ゴダール そう、でもそれはどんなに苦しいことか!

ル・クレジオ 未開社会が誕生したのは――形成されたのは、人間が《どのようにして妻を守ればいいのか? どのようにして俺の羊を盗まれないようにすればいいのか? 俺は自分の羊をひとに食べにこられたくはない》と考えるようになったときです。そしてこれがモラルの基礎をなすものなのです…… そのあと、その社会のなかの最も知的な人たちが将来のことを考慮に入れはじめ、《俺は年をとってから、ひとに食べにこられたくはない》と考えるようになります。そして儀式を考え出しはじめます。でもその儀式が人々に尊重されるようになるためには、その儀式を無限のなにかと、人間の外部にあるなにかと関連づけなければなりません。年をとってからひとに食べられたりしないようにするためには、他人をいくらか恐れさせるような神が必要になるわけです。だからこそ、人間を超えたなにかを介在させることなくなんらかの社会を構想することは不可能なのです。私にはどうすればそれが可能なのかがわからないのです。
ゴダール 人間を超えたなにかの介在というのは、それは人間の意識のことだ。
ル・クレジオ 人間の意識だけで十分だとは確信できません。
ゴダール われわれはひとにとって食われたりしないようにするために、他人の意識を目覚めさせなければならない。

――あなたの映画の登場人物たちはいつも、挫折に、自殺に行き着きます。
ゴダール でもああした挫折は存在のひとつの契機にほかならない。たとえば、ひとは夜浜辺を散歩するときは、朝街でふるまうのと同じようにはふるまわないものだ。
ル・クレジオ ある人間が夜浜辺で――空に蝙蝠が飛びかかっていたりするがゆえに――一瞬充足感を味わうとしても、それはそのとき世界の問題が解決されたということを意味するわけじゃありません。それが意味しているのは、その人間は都市での戦争の重要な契機に対して敏感であるだけにいっそう、自然のなかの平和の重要な契機に対しても敏感になるということなのです。そしてその人間はほかの人間たちからは、それらの戦争の契機との関係において評価されるのです……
――でも戦争はまた、内的なものでもあるわけで……
ル・クレジオ もちろんです。現在はパリでは戦争はおこっていません。でもゴダールにとってはおそらくは、この都市では戦争は絶え間なく続いているのです。あまりに見すぎる人、あまりに耳を傾けすぎる人、あまりに神経が過敏な人、あまりにものごとを知りすぎている人にとっては、戦争はいつも存在しているのです…… 私は自分はあるとき死んだのだということ、というか、自分は生まれてなかったのだということを知っています。自分はほんの一瞬であるにすぎないということを知っています。いつの時代にもこのことしかなかったのです。人間はこのことしか……死のことしか、自分の死のことしか考えてこなかったのです。
ゴダール ……ル・クレジオは何分かまえに《五時半に電話します》と言ったんだが、それはまるで、《もうすぐ死にます》と言っているかのようだった。
 
――『気狂いピエロ』では血がたくさん見られます。
ゴダール いや、あれは血ではなく赤なんだ。

 
すべて「ゴダール全評論・全発言I」より

  ◇◇◇

 火曜日は生きた。
 水曜日は終わったあと、YNとみっちとTNと飲んだ。会社でぐだぐだしていたら遅刻をした。飲んだ。会社の話をした。YNが自転車にはまっていて、10万円のホイールを買っていた。ばかにしまくって遊んだ。みんな遠いところに行ってしまうものだから、わたしはいつも近いところにいたいなと思った。
 木曜日は、会社帰りにYYくんとTSさんがうちにやってきた。TSさんにJAVAを教えた。YYくんの教えかたのうまさにおののいた。どうして会社の教えかたというのはいつも1冊の本にすらおよばないんだろう。なんでも、そうなのかもしれないけれど。だれかがなにかがわからないのだとしたら、それはだれかになにかを教えようとしているひとがいつもわるい。

   ◇◇◇

「日本では、男性が女性専用車両に乗るとこうなります。」の動画を見て衝撃を受けた。なにも言えない。なにも言えないのは、おそらく現実だからだと思う。わたしがなにか言えるのは、虚構についてだけだ。

   ◇◇◇

「Mother Rose」だけあれば生きていけるんじゃないか。

   ◇◇◇

 だれかといっしょにいるということはだれかといっしょにいる退屈さにどう耐えるかの問題だと思う。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/848-2a1c76e8
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。