スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

「オルセー美術館展2010 ポスト印象派」@国立新美術館

2010.08.16(01:44)

紅い花 他四篇 (岩波文庫)紅い花 他四篇 (岩波文庫)
(2006/11)
ガルシン

商品詳細を見る

 土曜日は眠い身体にむちをうって、ユーロスペースでペドロ・コスタ「何も変えてはならない」を見た。モノクロの映画というのはふつう、実際のカラーとしての世界がカメラによってモノクロにうつしだされたもの、だと思いがちで、だいたいの映画はそんなことは見ていればわかるけれど、「何も変えてはならない」の冒頭はそれがわからない。白と黒しかないので、わたしはそれがカラーなのかモノクロなのかわからなかった。30秒くらい見て「あ! そうういえばモノクロだったよ!」と気づくくらいの微妙な時間差がこの映画にあって、たぶん、この「微妙な時間差」がこの退屈きわまりないこの映画の圧倒的な魅力のほとんどを支えている。実際、モノクロの映像は白と黒とその中間のさまざまな灰色で構成されているけれど、この映画には白と黒しかないように見えた。白としての灰色と、黒としての灰色。それはサイレント時代の映像に近い。
 途中、何度か寝たけれど、みんな、この映画をちゃんと寝ないで見ているんだろうか。ジガ・ヴェルトフ「キノ・プラウダ」もそれはもう寝まくったけれど、サイレント映画はわたしにとって全部退屈だし眠い。「何も変えてはならない」もそうだった。だから、この映画はどんなに音がすばらしくても、サイレント映画だと思う。それと、これはどうでもいいけれど、この映画はフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからない。ワイズマンもそういう顔をしている。ワイズマン「パリ・オペラ座のすべて」もすばらしく退屈な映画だったけれど、みんな、あれを「おもしろい! おもしろい!」と思って見ているのかな。さいきん、いちばん気になっているのはそこだ。みんな「何も変えてはならない」を見ているときいったいなにを見ているんだろう。
 六本木まで行って国立新美術館で「オルセー美術館展」を見てきた。ひとがいっぱいいて、50分待ちだと言われた。フランスのオルセー美術館よりも10倍くらい混んでいた。わたしは今回はそんなに目玉となる作品はないだろうと思っていたので、みんながなにを見にきているのか気になった。ゴッホ「自画像」かしら。個人的に気にいったのはまず、モネ「ノルウェー型の舟で」「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す光」だった。モネなんていままでぜんぜん興味関心がなかったけれど、「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す光」を見て、「おまえ、もうものを描く気ないだろ!」と思っていっぱい笑って、口をぼんやり開けて見ていたので、いっぱい好きになった。ゴッホも「星降る夜」も絵の具がびたんびたんに塗られていたから好きだった。ギュスターヴ・モロー「オルフェウス」もきれいなものをあんなにきれいな描かれてはお手上げすぎるので、手をあげてぼけっと見ていた。あの生首になりたい。死んだら生首になりたいよ! 今回いちばんびっくりしたのがピエール・ボナール「ベッドでまどろむ女」で、わたしは、ほんとうに、ほんとうに、絵なんてぜんぜん好きじゃないよ、どんな絵ももう通りすぎるようにしか見ることができないよ、と思うけれど、こういう絵が一枚だけあるなら、わたしはそれだけでいろんなものを捨ててまで美術館に行きたいよって思うよ。だってこんなきれいなものほかにはほとんどないよ。
 あとはオディロン・ルドン「目を閉じて」(顔がやばい)、ハンマースホイ「休息」(背中がやばい)がよかった。
 駅のベンチでガルシン「あかい花」、プラトン「饗宴」を読んだ。ガルシン「あかい花」、「四日間」、「信号」はわたしはほんとうに好きだと思う。「信号」は最後の9行を読んだとき身体がぶるぶる震えてこまった。「あかい花」は気狂い病院にいれられた男が世界を救おうとする短篇。庭に咲いているあかい花がこの世界の悪のすべての根源だと理解し、医師や庭を管理しているひとたちをふりきりながら、世界のため、彼は狭窄衣を壊してそのあかい花を摘んで死んでいく。彼のうつくしさが好きだと思う。彼はなにを救ったんだろう。自分か、世界か。どちらにしろ、かなしいのは、世界のだれもが彼が世界を救ったことに気づいていないことだ。だれも、かえるくんが新宿直下の大地震を救ったことにほんとうには気づいていないのと同じように。「世界の中心で愛をさけんだ獣」で「俺はおまえたちを愛しているんだ!」とさけんだあのテロリストが世界を愛していることにだれもがほんとうには気づいていないのと同じように。
 下高井戸シネマでジャック・ロジエ「アデュー・フィリピーヌ」を見た。「オルエットの方へ」は完璧にあちら側へ行ってしまった映画(なんで3時間…)だと思うけれど、「アデュー・フィリピーヌ」はぎりぎりこちら側に居残っている印象があるので、見やすく、すなおにおもしろい。感想がでてこないけれどおもしろい。「オルエット~」とちがってステファニア・サバティニとイヴリーヌ・セリがかわいいのもうれしい。

 日曜日、ユーロスペースで「ペルシャ猫を誰も知らない」(西洋文化が禁じられたイランで音楽をやろうとするひとたちの映画。予告編の「アイスランドへ行きたい。シガー・ロスを見るのが夢なんだ」だけで泣けるのでぜったい見たい)と、イメージフォーラムで、フィリップ・ガレル「白と黒の恋人たち」的な雰囲気が漂っているような気がしないでもない「シルビアのいる街で」をぜったい見にいこうと思い、12時に起き、2時に眠り、起きたら7時だったので、「あ…」と思い、ユナイテッド・シネマ浦和までしゃりしゃり自転車をこいで、「踊る大捜査線 The Movie 3」を見た。
 わたしはさいきん、「高橋源一郎も村上春樹も小説を書くことを放棄している。ぷんすかぷん!」と言っていたけれど、ここに思わぬ伏兵がいて、「踊る大捜査線 The Movie 3」も映画ですらなくなっている。「The Movie 2」で「踊る~」がとりくんできたテーマが完全なかたちで終わりを迎え、「このあとどうするの?」と思っていた。その答えとして提示されたのが「もう映画であることをやめる」というものなら、こんな事件はない。「『映画であることをやめてしまう』なら、いくらでも映画なんて撮れる」ということが数々のスピンオフ企画をふくめた答えだとしたら、いますごいことが起きているのだと思う。「映画」というかつてはぎりぎりあったかもしれない境界が「踊る~」ではもうくずれている。わたしには「撮りたいものがない」と見えた。撮ることが前提にあって、撮りたいものがなにもないように見えた。事件すらじつは起きていない。わたしたちはたぶん、この映画を見て青島がどうなって、室井がどうなって、真下がどうなって、それぞれの関係や警察捜査のやりかたがどうなっているかを確認しにいっているだけだと思う。ゴダールはかつて「字幕があると、ひとびとは映画を見なくなってしまうのです。ひとびとは字幕を読んで、そして画面にブラット・ピットがうつっているかどうかを確認しているだけなのです。けれど、私の映画にはブラット・ピットがうつっていないので、ひとびとは困惑してしまうのです」と言った。「The Movie 3」を見て衝撃的だったのは、ゴダールが語ったその見方がつくり手や観客にとってあたりまえのように享受されている、つまり、つくり手が望んでいる(とわたしには見える)観客の見方がゴダールがかなしく語ったその見方とぴったり一致しているようにわたしには思えたことだった。だから、この映画には見えない字幕がたしかにあった。そしてひとびとにとって字幕が主だった。ゴダールの言うかつての「字幕」は東浩紀によって現在では一度「データベース」と呼びなおされた。壊しちゃおうよ、そんなもの。
(「The Movie 3」ぼろくそ言ってますけれど「踊る~」なのでもちろんけっこうおもしろいです。75点くらいです。そして、肝心なのはいつまでたっても変わらない青島とすみれさんの関係です。拓也としな子(でもだれでもいいけど)の関係が変わるとき「赤ちゃんと僕」が終わりであるなら、青島とすみれの関係の変化は物語の終わりなのでしょうか。関係の変化は「世界の終わり」のことなのでしょうか。「踊る~」は連載漫画なのです…)

「ネムリバ」という映画の予告編(30秒 埼玉 Ver)がほんとうにすごい。見てもどんな映画なのかぜんぜんわからないところがすごい。べつに埼玉を押す意味はあんまりなくない?と思えるところがすごい。ぜひ見たい。

   ◇◇◇

 来週友達の女の子の家で開催されるカレーパーティにお呼ばれしているんですけれど、リア充っぽくないですか。なんですか僕そろそろ死ぬんですか。家に土管とか落ちてきて潰されるんですか。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/849-7a0a028e
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。