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「ナポリ・宮廷と美 カポディモンテ美術館展」@国立西洋美術館

2010.09.03(13:10)

イキルキスイキルキス
(2010/08/17)
舞城 王太郎

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 俺は達郎の尻の穴を犯して汚して殺した塩田克雄が許せない。この世のあらゆるホモが許せない。この世のあらゆるロリコンの変態どもが許せない。俺にとってはどんなホモもどんなロリコンもケツの穴狙いのクソであって大人の女と勝負できない卑怯な弱虫であって、塩田克雄と同類であって同罪なのだ。クソどもの細かい人格なんてどうでもいい。とにかく俺はそのクソどもの天敵となることに決めたのだ。
 俺が抹殺したいのは塩田克雄だけではない。ホモだけではない。ロリコンだけではない。俺は性欲を許せない。精液も許せない。
――舞城王太郎/鼻クソご飯

   ◇◇◇

 8月25日(水)

 会社から帰ったあと、家でごろごろして、舞城王太郎原作、白川士監督「NECK」を見にいった。途中、こわくなって「なんで俺ひとりで見にきちゃったんだろう!」とすごく後悔したけれど、後半はあまりにもくだらなかったので、安心して夜道を帰ることができた。やさしい映画だった。わたしはこの映画はやさしさをやさしさだと認識しているひとのための映画だと思う。わたしはやさしさがやさしさなのかどうかわかったことがあまりないので、この映画もよくわからなかった。


 8月26日(木)

 会社帰り、パスタを食べ食べ、TSさんにJavaを教えた。いっぱいうそを教えたような気がするけれど、わたしにはよくわからない。わたしは、わたしに相談めいたことをされてもほとんどなにもしゃべらないので、たぶん、他人なんてどうだっていいと思っているんだろうな、と思った。


 8月27日(金)

 飲み会だった。わたしは直前まで知らなかったけれど、この日の次の日はKYさん(空気は読める)の誕生日だったらしくて、お誕生日会的な飲み会だった。女子会的な飲み会だった。KYさん(空気は読める)に「タワー・オブ・テラーはこわくないよ!」と激しくプッシュされた。わたしが「だまそうとしているでしょ!」と言うと「え~」と言っていた。煙草を吸いにふらふらしている途中で、店中が暗くなって、店員さんがケーキを運んできた。みんなでお誕生日の歌をうたった。わたしはCKさんにだけぼそっと「俺あんなことされたら死ぬ」と言ったけれど、けっこうたくさんのひとが聞いていた。
 知らないお姉さんに新しい煙草をもらった。おいしくなかった。


 8月28日(土)

 アテネ・フランセでヤスミン・アフマド「ムアラフ 改心」、「タレンタイム」を見た。ふたつともすばらしかった。かわいいし、笑えた。このふたつの映画を見て、ヨーロッパやアメリカのキリスト教はもう宗教でもなんでもないなと思った。わたしは「タレンタイム」で「アメイジング・グレイス」が流れたとき、うっかり泣きそうになってしまった。たとえば「アメイジング・グレイス」で泣けることがあるならば、それが宗教だと信じたいし、泣けないのなら、それは宗教ではないのかもしれないと思っていたい。
 下高井戸シネマでジャック・ロジエ「メーヌ・オセアン」を見た。カフカの小説は悪夢だと形容されることがあるけれど、もしもカフカの小説が悪夢ではなかったとしたら、それはロジエ「メーヌ・オセアン」になると思う。だらだらとしたしまりのない展開に驚愕するけれど、こういう映画がひとつあるだけで、わたしはとても幸福だと思う。


 8月29日(日)

 国立西洋美術館で「ナポリ・宮廷と美 カポディモンテ美術館展」を見た。ジョルジョ・ヴァザーリ「キリストの復活」にびっくりした。ふざけて描いているとしか思えないキリストさんのポーズと表情に注目したい。マッティア・プレーティ「ユディト」のユディトの切りおとされた首の断面をずっと見ていた。なんだか気持ちわるくなった。「ハムだ!」と思った。もしかしてちがうのかもしれないけど。
 ユーロスペースでバフマン・ゴバディ「ペルシャ猫を誰も知らない」を見た。西洋文化が禁止されているイランのテヘラン、おおっぴらにヘヴィメタルをやっていると警察に通報されちゃうからと言って、郊外の牛小屋でずっと演奏をしていて、演奏中に肝炎で倒れちゃって、お医者さんに「ずっと牛小屋に寝泊りするなんて正気じゃない!」と怒られちゃう、すてきな映画だった。ペルシャ語のヒップホップもかっこういい。


 8月30日(月)

 会社に行った。


 8月31日(火)

 会社に行った。


 9月1日(水)

 会社帰りにCKさんに基本情報の勉強を教えた。AIさんに「さいきんCKさん体調わるいから中止しなよ! 『やめようか?』と言うと『平気』って言うに決まっているから桜井さんが調子わるいふりしなよ!」と言われたけれど、「俺そういうのぜったいむり」と言ったら笑っていた。CKさんに訊いたら「体調わるくないよ」って言っていた。よくわからなかった。勉強が終わったあと、パチンコ屋のまえで立って話していた。「多趣味だね」と言われた。「そんなことないよ」と言った。「それは、ただたんに世界が終わっているだけだよ」と思ったけれどそれは言わなかった。
 禁煙をはじめた。


 9月2日(木)

 会社に行った。会社にいった。


   ◇◇◇

 反世界の小さな田舎町で、もう一人の私である男が、彼の妻とくらしているのを、私は知っている。
 私の住む小さな田舎町に、霏々として、雪の舞うとき、彼の住む田舎町にも、霏々として、雪は舞っているのである。
 雪は、全ての柵を埋め、雪は、全ての橋を無にする。私の家だけを、唯一の黒いものとする。私と妻だけを、顔を持って生きているものとする。
 雪は、納屋の馬鈴薯を遠いものにし、雪は、居間の箒を静かなものにする。雪は、巨きな鶏冠を見せて、窓から覗きにくる。
 私は妻を縛って、梁に吊るし、それから、古い薪を燃やして、浴室に閉じこもる。
 彼も、きっと、そうしている。浴室には、剃刀がある。鏡がある。二人が、必ず、逢えるところなのだ。
 ――――たちこめる両世界の湯気のなかで、二人が何をするのか、訊かないでほしい。
 私たちは、別に、悪いことなどしないのだから。亀頭のあるものを尺度にして、ただ、何かの熱さを測るだけなのだから。何かの深さを測るだけなのだから。
――粕谷栄市/副身

 測ることすら許そうとしないひとがいる。苦しかった。世界と名づけたかったものをにんげんと名づけてしまってからまちがいに気づいた。それは苦しいことだと思った。他人が壁ならいいとときどき思う。それが壁なら、わたしは恥ずかしさをかみころすだけで話しかけることができる。他人はいつでも壁ではないから、わたしは恥ずかしさをかみころす以外のなにかを持ってそのひとと関係しなくてはいけない。だれかとなにかをすることはそのひとを壁ではなくあつかうということだ。相手がにんげんであったなら、わたしはそれが猫でもいいと思う。猫でじゅうぶんだ。わたしはたぶん、壁よりはやさしい。




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