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おはようとうめいにんげん

2010.09.12(22:04)

 9月11日(土)

 国立新美術館「陰翳礼讃」。須田国太郎、印藤真楯、安井曽太郎、北脇昇、デュシャン。
 森アーツセンターギャラリー「地球最古の恐竜展」。レッセムサウルス、サウロスクス。
 おいしいお菓子。ブールドネージュ。
 

 9月12日(日)

 彼女の話を聞いていると、彼女なんていないんじゃないかと思えてくる。どうして彼女はそこにいるのにそんなにもそこにいないんだろうと思えてくる。彼女がいないなら彼女を愛することはできないのかもしれないと思うけれど、それはちがって、たぶん、彼女がいないならばいない彼女としての彼女を愛するやりかたとしての愛しかたがあるんじゃないかと思う。彼女の話を聞いていると、彼女のなにかを好きになるやりかたがこの世界でほんとうにゆいいつ美しい好きになるやりかただと思えてくる。わたしは、ずっと、だれかを愛さないようなやりかたでだれかを愛したいと思っていた。でも、どうしてそういうやりかたをとろうとしてすらもだれかを愛せないんだろう。わたしはわたしがなにかを好きなのか、なにかを愛しているのか、ほんとうにちっともわからないから、たとえばそういうことにもしかしたらうまく耐えることができないのかもしれないと思うから、わたしはわたしと約束をした。わたしはこれを好きなにんげんだということにしよう、わたしはわたしを最低なにんげんだということにしよう、わたしはわたしが最低なにんげんであることに耐えられるようなわたしとしてのものの見方をもったわたしであることにしよう。わたしはわたしとそんなふうに約束をした。わたしは彼女と約束をしようとするまえにたぶん自分と約束をしていて、その約束を欺くようなやりかたで彼女と約束をしようとしたんだと思う。そんなくだらないことってちょっとないし、べたべたと塗りつけられたあさましさがいやんなる。わたしは、もしもだれかのとなりにいるのならそのだれかのことをわたしはほんとうにはぜんぜん好きじゃないよって思うやりかたでとなりにいたいし、そのだれかにもそう思ってもらいたいと思う。もうそういうやりかたでしかだれかを好きになることができないし、かりにそういうことでうまくいかないんなら、もうだれも好きになれなくていい。
 たぶん、あらゆることがらがわたしが得たいと思うものよりもずっとずっとどうでもいいことなんだと思う。かなしみと想定されたものはかなしみではちっともなくて、絶望と想定されたものは絶望ではちっともなかった。やっぱりそうなのか。やっぱりそうなのかと思う。だからそれはいつでもたのしい。かなしみと想定されたものや絶望と想定されたものはやってきたときにはいつもたのしくて、出会うころにはぐるぐると手をふってからからと笑える。シェイクスピアの悲劇もドストエフスキーの小説も喜劇にしかなれないのなら、どんなにかなしいひとでもそれはたのしいんじゃないのかなと思う。絶望やかなしみはおりあいをつけるとかつけないとかいうまえからすでにそこにあった。それがくだらないことならばそれはそれだけでたのしかった。もうそれがたのしいならばわたしはわたしが痛くないありかたで世界が明日滅んでもいい。たのしいなら人生なんてもうどうでもいい。いいかげん、ちょっとたのしくなってきたよ。死ぬなら彼女を殺してから死にたいと思うけれども、よく考えたらわたしが死んだらもう彼女なんてどうだっていいに決まっているから、それはよくないなと思った。わたしがどうだっていいのはたぶんわたしだけだ。
 むしろ彼女がどうとかいう問題ですらない。問題をすべてわたしのものとして奪いとってしまうこともまた醜いことだけれども、せめて、わたしがにんげんじゃなくてひとつづきの文章ならよかった。1週間ぐらい生きた屍ごっこがしたいと思った。でもたのしすぎてそれすらもうまくできない。たのしい。たのしい。ほんとうにたのしいなあ。たのしすぎるから、世界、ちょっと死んでみてよって思う。




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