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くまのかたち

2010.09.16(23:11)

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(2002/10/28)
Sigur Ros

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 9月16日(木)

 寒かった。朝、家をでた瞬間、暗い雨がしゃぽしゃぽ降っていて、わたしがわたる陸橋からは階段を這うようにして水が流れていた。たくさんのひとの下半身がみっともなく濡れていて、わたしが朝課長たちにあいさつをするために頭をさげるとき、雨滴がすっと頬のしたまで垂れさがった。
 YTさんからのお土産で、くまのかたちをしたチーズケーキをもらった。おおきかった。どうしようかと思った。チーズケーキは世界でいちばんおいしい。
 また今日も会社でなにもやらなかった。


 いま暴力に意味があるとすれば、それは現実を変えるからじゃない。暴力の意味は、言葉にはまだ力があると錯覚させる、その一瞬のスペクタルのなかにしか存在しない。言葉には力がない。意味すらない。しかし、特定の言葉で暴力が生み出され、ひとがばたばたと死ぬとすれば、そのあいだは関心をもたざるをえないだろう? 二一世紀の言葉は、もはやそのようにして生き残るしかない。思想や文学はテロに寄生して生き残るしかない。ぼくたちの時代においては、テロこそが最良の、そして唯一の啓蒙手段なんだよ。


 東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」のおもしろさは近未来としての姿を見せてくれるところだと思う。それはたとえば北朝鮮の崩壊、日本の先進国からの明確な脱落、移民の流入、量子コンピュータ発達による検索の無効化とネットワークの崩壊、という、歴史、量子物理学という知的おもしろさで、わたしにはもう、それが形式なのか中身なのかうまく判断することができないと思うけれど、わたしは魅力のかけらもないキャラクタがなにを言ったとしても、こころを動かされないと思う。わたしには東浩紀本人がキャラクタとしてネットにとりこまれているようにしか見えない。わたしは東浩紀に会ったことがないから、東浩紀がキャラクタに見えて見えてしかたがない。だから、この小説にはキャラクタはひとりもいない。東浩紀だけがキャラクタだと思う。そしてやっぱり、東浩紀は小説としてこの小説をおもしろく書こうとしているとは思えない。わたしは小説を疑う。映画や音楽が自分たちがなすべきことをなすべきかたちでまだやろうとしているかもしれないと思えることにたいして、たとえばジョニー・トー「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」が映画としてすぐれていると思える一方で、この小説が小説としてすぐれていないというてんでしか小説化されえないなら、やはりわたしはこの小説を疑う。小説なんてこの程度かと思ってしまう。
 いまの小説のありかたはわたしにはほんとうに狂っているように思える。小説というせまい世界のなかでさいこうにおもしろい小説が出現するたびその固有の小説は小説全体のつまらなさを露呈してしまっているように見えることがある。だからわたしはもう小説なんて書きたくない。自分が書くものが小説でなければいいと、ほんとうに思う。




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