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ららら孤独死♪

2010.09.18(22:07)

日本の難点 (幻冬舎新書)日本の難点 (幻冬舎新書)
(2009/04)
宮台 真司

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13日間で「名文」を書けるようになる方法13日間で「名文」を書けるようになる方法
(2009/09/04)
高橋 源一郎

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 9月17日(金)

 今日も会社にいった。
 

 わたしたちは、相手を「知らない」から「恋におち」、その結果、相手を知ろうとして、やがて、その「恋」を失うのです。
 つまり、わたしたちは、「恋愛」を失う条件を作り出してしまうために、命がけで「恋愛」していることになるのです。
(中略)
 わたしの考えでは、わたしたちが「恋愛」をするのは、ひとりではいられないからです。わたしたちは、ひとりの孤独には耐えられません。
 わたしたちは、ある意味で、「わたし」という牢獄に捕らわれている囚人です。そして、その「わたし」という牢獄から、一生、出られないのです。
 そして、もっと重要なのは、囚人というものは、ひとりの例外もなく、閉じこめられた「牢獄」から逃れようと考えるものだということです。
――高橋源一郎/13日間で「名文」を書けるようになる方法
 

 おそらくは「わたしはきみのそばにいたくて、きみのそばにいることを無条件で許されたくて、けれど、そのことをつねに表明しつづけるのはとてもむずかしくて、そして、恥ずかしくて、もっともたいへんなことにはめんどうくさいことだから、わたしはきみとたったいっぺんだけでいいから約束をしたいと思うんだよ」というだけのことだったのかもしれないといまは思う。思っただけで、それはなんということもないけれど。わたしはいつでも思うだけだ。


 9月18日(土)

 土曜日のくせに早起きして、フィルムセンターまでポルトガル映画を見にいった。11時から7時までかけて3本見たけれど、こうもずっと映画みたいな映画を見ると、2本めを見るころには1本めの内容を忘れていて、3本めを見るころには2本めの内容を忘れているという、ひどいことになるということがわかった。にわとり。
 パウロ・ローシャ「青い年」はほんとうにだいすきだと思ったラストシーン以外なんにも覚えていない。同じくパウロ・ローシャ「新しい人生」にかんしては途中寝ていたこともあって、もっとなんにも覚えていない。歯の浮くようなすばらしい台詞のオンパレードがよかったし、映像も美しかった。最後に見たマノエル・ド・オリヴェイラ「過去と現在 昔の恋、今の恋」は比較的よく覚えている。わたしは、冒頭のシーンがはじまったとき「これはなにかべつの映画の予告編だな」と思ってずっと見ていたけれど、「なんかおかしいな」と思っていたらそれが本編だったのでびっくりした。壮大に無駄な、あまりにも無駄すぎる音楽の乱用にほんとうに驚いて、「この映画にはせりふがいっこもないんじゃないかな?」とかんぐってしまったところだった。あぶないあぶない。オリヴェイラ好きだ。
 今日は宮台真司「日本の難点」をずっと読んでいたけれど、社会学系の本は小説なんかにくらべてずっとずっとわたしのこころをひきさいていくので、あまりちゃんと読めない。


「ダメな僕。それでも『そんなアナタが好き』と言ってくれる女の子はいないかな」と〈承認〉を求める男の子。そんな具合に自分のことしか考えていない男の子に愛想を尽かし、心の奥底を打ち明けても〈理解〉してくれる男性を求める女の子。これでは、噛み合うはずもありません。
(中略)
 状況は男の子の方が圧倒的に深刻です。女性と違って男性には同性同士の相互扶助ができません。老人ホームに行くと分かります(僕は何度も行きました)。女性同士は見知らぬ者同士でもどんどん仲良くなりますが、男性は永久にポツンとしたまま。体育会的なものが廃れた昨今の男の子の老い先は、もっと暗いでしょう。
「ヴァーチャルな女の子だけで十分です」なんて言っていられるのは今のうち。愛によって継続する関係が得られないのなら、とりわけ男の子は将来ひとり寂しく死んでいくしかありません。病気や事故で自分が窮地に陥ったとき、ヴァーチャルな女の子は助けてくれますか。あり得ません。



 もうほんとすいませんと思う(だからといってべつになにかをするわけではない)。
 でも、たぶんこの本は今年読んだ本のなかでいちばんおもしろいと思う。あんまりにも社会のことを知らなすぎてわたしはだいじょうぶなのかなと思う。まわりのおとなたち(わたしはまだ子供のつもり)を見ているとべつに社会のことなんかなんにも知らなくてもぜんぜん生きていけるなと思うけれど、それは現時点での過去から50年の話で、これから50年がそうだともかぎらない。わたしが「クォンタム・ファミリーズ」(2036年が舞台)でいちばん「むむっ!?」って思ったのが「日本の富裕層の海外流出」という事態で、「ああ、そっかそっか、格差社会っていうのはつまるところそういうことでもあるんだな」って思った。もう日本がいつまでもあると思っているひとはただのばかなのかもしれないなと思った。働きだしてお金を貯めるという行為が現実となってのしかかってくると、そのお金をどうしたらいいのかということも考えなくちゃいけない。橋本治は「経済学者たちは『経済というものはいちおうまわるようにだれかがなんとかしてくれる』という前提でものを考えられている。経済というものがまわらなくなっちゃったときにどうなっちゃうのかということはまじで考えるとこわいし仕事もなくなっちゃうから考えないようにしている」というこわいことを言っていた。金融工学に支えられた経済がいつまでまわるかなんてわからない。なんでかよくわからないけれど、「株をやってみようかな」と言いだすひとはけっこういると思う。「経済とか世の中のことがちょっとわかるかもしれないし」と言って。それはそうかもしれないけれど、やっぱりわたしは「なんで株じゃなきゃいけないの?」から考えはじめるべきだと思う。経済とかいうと、株とか、有価証券とか、債務とか、投資とか、そういうイメージがたぶん強くなっていて、わたしはその単語のどれひとつたりともまともに理解していないからそれはもちろん問題なんだけれど、それはいいとして、もしかして、もっとちゃんと頭のいいひとは金融自体が崩壊しちゃったあとのことまでそなえてなにかごちゃごちゃやっているんじゃないのかなと思う。それはもっとたんじゅんにいえば、「まじ経済とかもう信用できないから金があんまり機能しなくなったあとでもせめて俺だけはなんとか生きていけるように、自分のまわりだけでも共同体をつくってにんげんの関係性をしっかりと回復させなきゃな」ってことだと思う。今村さんとかがいまやっていることってそういうことが単発・乱発としてぼこぼこ噴出しているっていうことでしょって思う(チガウカモシレナイケド。でも部外者からすればカタリバって閉鎖的に見える。ソウイウコト)。
 わたしをふくめて、「ひとりでいい」とか「他人に興味がもてない」とか言っているひとがどれほど本気でそう言っているのか気になってしまう。病気とか事故だとかで経済的に困窮して家族が死んだときはもちろん、「深刻な病気とか事故とかなくてばりばり正社員でふつうに生きているつもりだったんだけどいつのまにかなぜか孤独死寸前でした。びっくりしましたよ!」という事態がリアルにありえるなら(ありえるんだろうなあ)、せいぜいいまのうちから行動力とか賢さを鍛えておいたほうがほんとうにいいと思うよと思った(わたしはやんないけど)。そうじゃなきゃ20年後くらいにみんなばたばた死んじゃうんじゃないのかなと思った。
 100%の戸愚呂弟が言っていたことを思いだそうよ。
「俺の経験からして、おまえにたりないのは危機感だ。おまえ、まだ自分が死なないとでも思っているんじゃないのかね?」





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