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それほどまでに顔な顔

2010.09.19(21:08)

夢は日々元気に死んでゆく夢は日々元気に死んでゆく
(1998/02/10)
友川かずき;友川カズキ

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 9月19日(日)

 友川かずき「夢は日々元気に死んでゆく」というアルバムがあって、そのなかに、「眩い孤独」とか英語で歌っている曲がいくつかはいっているんだけれど、あまりの英語のへたくそさに絶句した。こんなにへたくそに英語歌っているひとはじめて見た。というよりも、ふつう歌詞に英語をいれるとき、だいたいの場合「英語なんだからネイティヴの発音に近づけたほうがかっこういいよね!」と思うと思うんだけれど、友川かずきはそんなことはいっさい考えてないように見える。だいたいのひとはそれを英語で歌おうとはするけれど、カタカナで歌おうとは決してしないということなのかな。友川かずきは英語で歌っているけれど、だからそれは日本語なんだと思う。だとしたら、ほかのおおくの日本人の歌い手が英語で歌うときそれは英語で歌っていると思いこんでいるだけでほんとうは日本語で歌っているだけなのかもしれないと思った。「歌詞を英語にすること」と「英語で歌うこと」は関係ないんだなって思った。

 今日もめげずにフィルムセンターでポルトガル映画祭。ひとり映画祭。
 アントニオ・レイス、マルガリーダ・コルデイロ「トラス・オス・モンテス」は(こういうことはあまり言いたくないけれどほかに表現のしかたがうまく思いつかないので言っちゃう)、映画としてのレベルがほかの映画とあまりにちがいすぎて、びっくりしてしまった。ものごとの輪郭や光と陰、色や動きなどをカメラがあまりにもくっきりとうつしすぎているせいで、わたしはたやすくそれを現実だと信じてしまう。それは、その村が現実にあるのかどうかということとはいっさい関係がないほどの現実だと思う。たとえば凍った川のなかでいっしょに凍りついた魚を発見したときのなまなましさと美しさはどうだろう。風景しかない。風景しかないなら、そこには風景だけがあった。教会のような場所でカメラはぐるぐるとまわりひとびとの顔をうつしだす。そこには顔があった。カネフスキーをのぞいた、もうほかのどんな映画もそれほどまでに顔な顔をうつすことはできないのかもしれないと思う。
 現実としての豊かさを信じきってしまったのが「トラス・オス・モンテス」なら、虚構の豊かさを信じきってしまったのがマノエル・ド・オリヴェイラ「カニバイシュ」で、あまりにふざけきった映画のため笑いがとまらなかった。語り手のふたりぐみの動きはいちいちきもいし、台詞はすべて歌なのでいちいちうざいうえ、ラストの「なんかもうこれでいいや!」という投げやり感をまとったように見えなくもない、まったく意味がわからない超絶展開に会場がわき、終わったあと、観客はみんな拍手していた。88年作品と書いてあるけれど、映像は2010年くらいの映像だと思った。時間すら軽く超えている。「虚構だから映像の年代的質なんて超えちゃってもべつにいいんだろ?」とオリヴェイラは思っているにちがいない。
 フィルムセンターでお客さんが予想以上に来ちゃったらしく入場が予定時刻から遅れまくっていたとき、ひとりの男のひとが係のひとに「どういうことですか?」ときつい調子で言っていた。そのひとは映画終了後に予定があるらしくて、遅れるとたいへんこまるみたいだった。近くの女のひとが「もういいじゃないですか。映画を見るか見ないか選択するだけじゃないですか。わたしは映画を見ることを選んだんだ」って言ってとめた。「満席」っていうだけで上映開始時間が30分も遅れるというのは「え? 満席にならないってこと?」と思うし、フィルムセンター側もきちんと対応を考えないといけないと思う。でも、わたしもたぶん映画を見ることを選んでいるだけで、なのに、映画を見ることを選んだあとに、どうしてスムーズに映画を見ないことを選ぶという選択がありえないんだろうかと思う。
 わたしは、映画館で聞く、だれかが話している映画に関する話がぜんぜん好きじゃないんだなとよく思う。その映画を見たあとだれかがその映画についての話をしていると、たとえどんなに褒めていても、「映画を見る」という行為をふくめてその映画じたいがまったくくだらないものに思えてしまう。つまり、わたしは、さいあくだし、他人を徹底的に見下している、というだけのことなんだと思うけれど。
 以前、(理由は知らないけれど)ミドリのライブで後藤まりこだけがでてこなかったらしくて、「そういうことがあったんだよ」って友達に話したら、「プロとしてやっちゃだめでしょ」って言われて「そうかあ」と思った。でも、わたしは当事者じゃないのでよくわからなかった。わたしがミドリのライブに実際にいって後藤まりこがでてこなかったら「なんだよ…」とたぶん思うし、そのことでミドリに愛想をつかしちゃうかもしれないし、きらいになっちゃうかもしれない。でも、それはそうなったときそうあればいいだけで、そうでないうちからなにかをどう思うかなんてわからない。それは、たぶんわたしが想像力に欠けているからだと思う。同じように、ガンズ・アンド・ローゼズや玉置浩二のライブにたいして当事者ではないのに「こうあるべき」というふうにどうして言えるんだろうと思う。ロックだから、アーティストだから、ミュージシャンだからと、たくさんのひとが言っているように思う。でも彼らの態度を好きかきらいかは彼らを好きなひとがそのときどきで判断すればいいとしか思わない。「ある種の態度が好きかきらいか」というのは「ある種の態度をしたそのひとのことを俺は好きかきらいか」という相互の方向から考えていかなければ、それは、そのひとがいかに「ロックについて理解している」からといったってそのひとの愚痴でしかないと思う。だれかの態度や考えかたなんて日々変わるし、その態度を受けるだれかの態度や考えかたも日々変わる。そういうことを受けいれていきたい。
 ポルトガル映画を嬉々として見にいくとか、どういう世界なんだろうとたまに思う。わたしは、わたしが事前に見る絵や映画や読む本について、もうそれがおもしろいかどうかわかっていて見にいっていると思う。だからわたしが見る映画はすべておもしろいし、わたしが読む本はすべておもしろい(もちろんたまにはつまらないことだってあるよ)。そんなものはあたりまえだ。わたしはおもしろいものしか見ないし、読まないんだから。そういうふうにしているんだから。わたしは見てないうちから来週の「エル・トポ」がおもしろいことを知っているし再来週のアンゲロプロスと大島渚がおもしろいことを知っている。だから、問題はそれが「おもしろいか・つまらないか」ということではないと思う。「おもしろいか・つまらないか」はわたしが恣意的に決めている範囲のことでしかないんじゃないかと思う。そうしないと、映画をいっぱい見たり小説をいっぱい読んだりはうまくできないんじゃないかと思う。くだらないなあと思う。小説や映画なんて、そんなにたいしたものじゃないのにな。たぶんわたしは、ほんとうにはなんにも見ていないのにな。




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