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「激突! 戸川純vs後藤まりこ After_the_Drive_to_2010」@新宿LOFT

2010.09.21(23:30)

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(2003/04/10)
YAPOOS

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 9月20日(月)

 朝起きたら子供がいっぴき窓にはりついていた。びっくりした。
 イメージフォーラムでホセ・ルイス・グリン「シルビアのいる街で」を見た。ある意味でさいこうに前衛なのかもしれない。たとえば、この映画ではふたりしか登場人物はいないのに、カメラは途中から、断続的に主人公もヒロインもうつすのもやめてしまう。まのびしたうつくしい街の景色を、無関係なひとびとをうつしてしまう。そしてそれは、いつでもそれだけのことでしかない。わたしは「この監督はほんとうは撮るものを見つけられなかったんじゃないだろうか」とすら思った。撮るものをたくさんあってもなにひとつ映画をつくれないひとも多いだろう、けれど、撮るものがなにひとつなかったとしても、映画はつくれる。
 紅姫さんと待ちあわせをして、新宿のLOFTで「激突! 戸川純vs後藤まりこ After_the_Drive_to_2010」を見てきた。戸川純を見たのははじめてだったけれど、わたしは存在のしかたがちがうと思った。くだらない言いかただけれど、持っている音の重みのひとつひとつがほかの音楽をやっているひととはくらべものにならないと感じた。戸川純はわたしにとってはおばあさんで、病気をしていて、腰を痛めていて、立っていることもままならなくて、トークではなにを言っているのかさっぱりわからなかったぐらいだけれど、彼女はそれでも歌えた。わたしは、たとえば「病弱なひとがこんなにがんばっている!」ということでものごとを判断したくないと思う。かりに病弱なひとがどんなにがんばったとしてもそれがごみくずでしかないのならわたしはそれをごみくずと強く思いつづけたい思う。わたしはそれを好きならそれを好きだと思いたいから、それがごみくずならそれをごみくずだと思いたいと思う。とくにパフォーマンス的なものはなにもない、後藤まりこのことをミドリちゃんとまちがえて呼びつづけた、わたしは戸川純のにわかファンみたいなものだからそれはノスタルジーですらない。ボブ・ディランが演奏したとき、そこには音がまるで花火のように弾けていた。ライブハウスはたぶん夜空だった。ときどき、ほんとうにときどき、戸川純の音がそうだったように、音楽がそのようであればいいと思う。

 わたしはわたしの文章でわたしの気持ちをあらわそうとは思わないと言ったことがあった。わたしの文章はわたしの気持ちではないからだと言ったことがあった。わたしはそれがうそかほんとうかなんてどうでもいいと思った。わたしのついたうそがうつくしいならわたしはそれがうそでいいと思った。だれかを愛せなくてもだれかを愛するふりさえできればじゅうぶんだと思った。
 そもそも、文章とはなんだったんだろうか。


 重要なことは、漱石も岡倉も、自分の内面と言語が透明につながっているという事態――これが言文一致においてもたらされる――を、拒絶していたことです。いいかえれば、言語はあくまで彼らにとって「外部的」なものとしてありつづけたのです。
――柄谷行人/〈戦前〉の思考


 38歳まで小説を書かなかった夏目漱石、そのすべての著作を英語で書いた岡倉天心。言文一致体という、あたかもわたしたちがしゃべったりするように書かれたように見えるたったひとつの書きかたにすぎないものによってわたしたちはほんとうに150年以上ものあいだだまされつづけていたとしたら、わたしたちの文章とはいったいなんだったんだろうか。日本中のひとびとが日本語にだまされてきたとしたら、日本語とはいったいなんだったんだろうか。わたしたちが内面と思って書いてきた「それ」はいったいなんだったんだろうか。
 わたしは、わたしの書く文章が文章であってほしくない。詩や小説であってほしいとはちっとも思わない。わたしは、わたしの書く文章が映画や音楽や絵や踊りであってほしいと思う。だったらそれはもううそもほんとうもないだろう。内面とか、気持ちとか、くだらないことをぐだぐだ言われなくてすむだろう。くだらない。わたしが「もっといい小説を書きたい」なんてひとことだって言ったことがあるのか。

 ドストエフスキーと太宰治はもっともうつくしいにんげんを描き、カフカは小説が現実を描くものではなく描かれたものが現実であることを示した。
 ドストエフスキー「地下室の手記」はいちばん笑えていちばん泣ける本だと思う。主人公の彼はいかにもばかでくずだと思う。将校に肩をぶっつけようとしてどうしてもできなくて、気まずい思いを抱えたまま暖炉とテーブルのあいだを3時間も往復してしまう。そしてリーザのあわれさとばかさかげんはいったいなんだろうと思う。このふたりはたしかにばかでくずかもしれないけれど、ほんとうにこんなにうつくしいふたりはもういないんじゃないかと思う。彼はリーザに本気でものを言おうと思ったと思う。わたしはたとえそれがうそだとしてもそれが本気だったらそれがかなしみだったらそれがあわれさだったらそのうそはもうほんとうだと思った。けれどリーザは彼にこう言ってしまう。


「なんだか、あなたは……まるで本を読んでるみたいで」


 ふたりで落ちていったって、愛が傷の舐めあいだとしても、わたしはほんとうにそれでいいじゃないかと思う。うそでも同情でも、それがきれいならばそれでいいじゃないかとわたしは思う。


「そうなんだよ! ぼくに必要なのは安らかな境地なんだ。そうとも、人から邪魔されずにいられるためなら、ぼくはいますぐ全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくがお茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんて破滅したって、ぼくがいつもお茶を飲めれば、それでいいのさ」


 なにをそんなに望んでばかりなんだろう。どんなにみにくくたって、それがきれいならばもうそれでいいじゃないか。そういうきれいのありかたがあるってわたしにはたしかに思えてしまって、そういうありかたを好きになろうってわたしはわたしと約束して、だったらもうそれでいいじゃないか。


 ぼくは愛を闘争以外のものとして考えたことはなかった。


 9月21日(火)

 会社にいった。会社から帰りがてら、SSくんとYYくんとHAくんでまくどなるどにいった。くぉーたーぱうんだーなんとかが200円だった。高いのか安いのかよくわからなかったけれど、それは安いらしいので食べた。おいしかった。ばななしぇいくを飲んだ。おいしかった。
 なにかすごくたのしい話をしていたようだったけれど、なにもかもを忘れてしまった。SSくんはからになったカップをべこべこして、ぐるんぐるんして、遊んでいた。まっくが終わったあとの怠惰な時間のすごしかたを知っている!と思った。人生!と思った。それが人生にちがいないと。




コメント
グリンってすごいんですね!(観たことありませんが)。アキ・カウリマスキ監督が「動かない人間の顔をえんえんと映し続ける」のもすごいと思ってたけど、上には上がいるんですね!
【2010/09/23 16:43】 | 上田洋一 #- | [edit]
カウリスマキ監督ってすごいんですね!(観たことありませんが)
そういうのってなんなんでしょうね。
暇なんですかね
カメラ動かすのがめんどくさくなっちゃったんですか ね。
【2010/09/26 18:48】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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