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私は驢馬に乗って下着をうりにゆきたい

2010.09.26(19:53)

わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい (ちくま文庫)わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい (ちくま文庫)
(2007/01)
鴨居 羊子

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 9月25日(土)

 せっせと起きて、フィルムセンターでジョアン・セーザル・モンテイロ「ラスト・ダイビング」を見た。これもおもしろかった。後半、広場みたいなところでなにかの演劇(さろめ?)みたいなことをやっていて、女のひとがえんえんと踊っているのをカメラが一部始終とらえていて、「きれいだな」って思ったから長いから寝ていた。起きたら、踊りが終わっているところで、そうしたら今度は音楽がなくなってもう一度踊りだしちゃったので、長いなって思って寝ていた。踊っている時間は10分くらいだろうか、それとも20分くらいあったんだろうか。その体感時間はかぎりなくほんとうの時間からはずれていて、もしも10分が30分や1時間くらいに感じられたなら、それはたのしいなあと思った。朝焼けのなかで老人が海に飛びこむシーンもよかったし、ひまわりもよかった。エスペランサがかわいかったのでなんでもよかった。
 渋谷をさまよっていたらいつのまにかインドにたどりついた。渋谷とインドは地続きになっているとはじめて知ったけれど、それをおおっぴらに言うとたくさんのひとが混乱してしまうから黙っていることにしよう。
 ヒューマントラストシネマ渋谷で、3年くらいまえからずっと見たいと思っていたアレハンドロ・ホドロフスキー「エル・トポ」を見た。砂漠で黒い傘をさして真っ黒な服を着たエル・トポがかっこういいなあと思ったからエル・トポはかっこうよかったにちがいない。血がばんさかばんさかでて、ひとの死体をうさぎの死体で埋めちゃったり、なんかおじいさんは虫とり網で弾丸を跳ねかえしていたからたのしそうだなあと思った。これはもう映画じゃなくてセンスなんだなと思った。パラジャーノフもそうだけれど、センスだけがあればもういいんだなと思った。


 9月26日(日)

 クリーニング屋さんにいって図書館にいって、それからどとーるにいって、勉強しようと思ったけれどめんどうくさくなってやめてずっと鴨居羊子「私は驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」を読んでいた。鴨居羊子は日本の女性下着に革命をもたらしたひとらしいけれど、わたしは彼女のことをぜんぜん知らない。

 
 大衆運動も社会運動も、啓蒙運動ですら、大衆に彼らが痛いときには痛いと、しっかり発言し、欲しいときには欲しいと発言し得る勇気、いや自覚を教えることからはじめねばならないことをいやというほど、私は脇から見ていて思い知らされた。教育されない大衆、いや啓蒙されない大衆は、痛くともだまっており、空腹でもだまっており、怒ることも反対することも、抵抗することもしらなかった。
(中略)
 私は下着をつくりはじめて、いや、つくることを考えはじめたときから、体験をどう生かすかを考えつづけた。消費者は私がだまっている限りだまっている。啓蒙されない消費者は、空腹であっても空腹を感じないほど無知なのだ。彼女たちは下着に不自由している。しかし、不自由しているとは自覚していない。指摘しなければわからない。

「でも両横がゴムだったらスカートにひびくわ」
 とにかく、彼女は既製のガーター・ベルトを良しとしているのである。明日の下着生活のことはもちろん、女の下着がいま市場にあるものとは、これから変わってゆくなどとは夢にも考えていないのである。



「消費者は私がだまっている限りだまっている。」と言いきった鴨居羊子の強さはなんだろう。ものを売るひとのおおくはものを買うひとを啓蒙しようとしているだろうか。「見下す」「見下される」、「おもねる」「おもねられる」という関係のなかでしかものを売買しているわけでは決してないと胸をはって言えるだろうか。
 たとば「あたえらえることをあたえる」ようなやりかたはないんだろうか。それを考えたことはないんだろうか。どこかの新聞が「シルビアのいる街で」について「詩的な映像」とでかでかと書いていた。でもホドロフスキーは「映画とは、詩であってほしい…」と言った。「的」をつけたのは、そのひとが詩について知らないからだと思う。知らないものについて知っているように形容したのならば、その映画も「知らない」ということにならないんだろうか。でもたいていの新聞はその映画についてよく知っているように書く。それは文章とはそういうふうに書くとだれかが教えてくれたからなのかもしれない。読むひとの目を切っているだけだ。血もでない、痛みもない、だからだれも気づかない。切っているひとも、切られているひとも。無痛に切っているだけだ。




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