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まるまった光

2010.10.04(21:41)

テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)
(2004/06/19)
ハーヴェイ・カイテルマルチェロ・マストロヤンニ

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 10月1日(金)

 会社にいった。なにをしゃべったのか、なにをしていたのか、まったく覚えていない。こわい。


 10月2日(土)

 てこてこ電車に乗って、新文芸坐にいって大島渚「愛のコリーダ」、「絞死刑」を見た。
「愛のコリーダ」はえろかったから、ひとりきりなのになんか気まずかった。こんなにうつくしい映像もほかにないだろうっていうのに。このくらいの年代、戦前・戦後くらいの男のひとはかっこういいなあと思う。むかしはぜんぜん平気だったような気がするけれど、刃物とかを見るのがずいぶんこわくなって、つい目を背けてしまうようになった。肉にぶちゅって刺さるのがこわい。阿部定の持っている刃物とか、首を絞めあったりとか、いつ死ぬんだろう、いつ刺すんだろうってこわかった。ゾンビは頭をふっとばされてもこわくないから好きだと思う。生身のにんげんのほうが、死んでしまうからずっとずっとこわくない。だれも刺したくないな。だれの首も締めたくないな。そういうふうにして生きていたいな。
「絞死刑」は「愛のコリーダ」とはだんちがいにてきとうにつくった感まんさいの傑作で、大島渚の変態度が「愛のコリーダ」よりもよくわかる気がする。くだらないし、ばかみたいだけれど、「追悼のざわめき」みたいな感覚で、ナチュラルに狂っているということが、たぶん、ほんとうの意味でグロテスクなもので、そういうのは直接的なグロテスクよりもずっとずっと強く発露してしまう。
 ぶかぶか電車に乗って、ユーロスペースに駆けつけて瀬々敬久「ヘブンズストーリー」を見た。「4時間38分!」、「現代の『罪と罰』!」とでかでかと宣伝していて、「それなら傑作にちがいないだろう!」と意気ごんでいったけれど、私にはちょっとよくわからなかった。4時間38分飽きずに見ることができたのだから、そんなにおもしろくないわけがないのだと思うけれど、わたしは映画や小説の長さというのは重要だとさいきんとくに思っていたから、がっかり度が高かった。わたしの考えでは、4時間の映画はとてもおもしろくなくてはいけないし、1000枚の小説はとてもおもしろくなくてはいけない。それは映画が4時間あるだけでおもしろいからで、小説が1000枚あるだけでおもしろいからと思えるからだと思う。そこそこおもしろい日本映画を2本見たくらいの印象しか感じなかったなら、それはほんとうはつまらないのかもしれない。おもしろいかどうかなんて、見ているうちにわかるものなんだろうか、決定されるものなんだろうか。たとえばジョニー・トー「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」があの程度の短さでおもしろくあれるのは、あれがアクション映画だからだと思う。ほんとうにつまらないものをおもしろく見せるためには長く見やすく撮ればいい。テレビドラマならテレビでやればいい。映画館では映画が見たい。まえにわたしは「映画とテレビドラマはなにがちがうんですか?」と訊かれて、「見ているひとがちがいますよね。あと長さがちがいますよね」と言った。わたしは本気だった。ほんとうにだいじなちがいはそのふたつしかないと思う。わたしがいちばんいやだったのは、サトという女の子になんの興味も持てなかったことだった。サトが泣こうがどうなろうが、わたしには関係なかった。なんでみんなそんなにつらそうだったり、こわそうだったり、苦そうだったりしているんだろう。わたしにはよくわからなかった。世界がそんなにひどい場所であるはずがないのに。世界はその程度のものじゃないよ。けど菜葉菜がかわいくて忍成修吾がかっこうよかったのでまあなんでもいいやと思った。

 
 10月3日(日)

 せっせと起きて、電車に乗って早稲田松竹でテオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」、「ユリシーズの瞳」を見た。わたしとアンゲロプロスにしてはめずらしくほとんど眠らずに見ることができたので、うれしかった。
「霧の中の風景」はおさない姉弟が会ったことのない父親を探してあちこちにいく話で、映画なんてものはかわいい子供がでていればたいていおもしろいに決まっているのでこれはもちろんおもしろかった。ヴーラ(タニア・パライオログウ)が駅で男に車両にはさまれたところに呼びだされて見つめあうシーンなんて、世界でいちばんきれいな光景だと思った。最後の木も忘れない。永遠みたいな映画だった。
「ユリシーズの瞳」は国、時代、社会、そういうものに綿密にからみあってくるけれどそういうものをとりはらったなかで考えればわたしが見たなかで映画史上最高の傑作かもしれないと思った。帰り道にずっと「すごい。すごい。すごい」とぞくぞくしていた。暗い街のなか、市場で映画がやっていて、音だけが漏れていて、狂信派のひとたちは歌をうたいながら明かりを灯して歩きまわり、街のまんなかで機動隊と向かいあって、機動隊の後ろには黒い傘たちをさした黒いひとたちがいて、きれいで、きれいで、明かりがぱっぱっぱっと消えていって、いまにも激突しそうで、はかなかった。マネよりも黒い黒が映画としてわたしの眼前にありえてくれたことがこんなにもうれしい。「霧の中の風景」もそうだけれど、アンゲロプロスの夜は「光がない状態」では決してなくて、夜がただ夜としてそこに存在しているということをよく見せてくれる。アンゲロプロスの夜のなかで光は決してにじまない。光が「わたしはきれいだよ! 光なんだから!」ということをいっぺんも主張しないで、あるべき場所にあるべきかたちでよくおさまっている。反射もしない、ちらつかない。アンゲロプロスを見ると「どうしてこのひとはこんなに光をおさえることができるんだろう。どうしてこのひとはこんなに光をてなづけることができるんだろう」と思う。そういうふうに撮れるのはひょっとしたらアンゲロプロスしかいないんじゃないかと思う。荒廃したサラエボの風景に震えた。こわくはなくて、どこよりもうつくしかった。霧がでればお祭りだった。ひとびとは音楽を演奏して死んでいった。悲痛なさけびは悲痛で、その語りかけはうっとりとするほどやさしかった。
 新文芸坐まで移動して大島渚「戦場のメリークリスマス」を見た。かんたんにいえばデヴィッド・ボウイが坂本龍一にキスをして坂本龍一がくらくらっとなって倒れる映画だけれど、もちろんとてもおもしろかった。ロレンス役のトム・コンティの顔としゃべりかたが好きすぎてちょっとたまらない。


 10月4日(月)

 会社にいった。
 帰りに、YYくんとKIちゃんとCKさんでよくわからないけれどAIさんを待っていたら、わたしとCKさんが話しているうちにYYくんとKIちゃんが消えていて、しかたなくふつうに帰って、どこかにいるにちがいないと犬のようにあたりをがさがさ探しながら帰ったけれどいなくて、駅で後ろからYYくんとKIちゃんがきて、「トイレいくって言ったじゃん!」と言われた。いつもなんにも聞いていない。ごめん。




コメント
誰もつっこまないのなら
わたしが言わねばならんだろう

電車に乗るときのオノマトペおかしいでしょ!

てこてこ電車に乗る。って!
ぷかぷか電車に乗る。って!

てこてこ歩いて、電車に乗ったんかい!
ぷかぷか煙草を吸って、電車に乗ったんかい!
意味わからんわ!

あれ、意味わかるな…
もしそうなら、高機能に省略された
日本語表現ですね。さようなら。
【2010/10/06 14:56】 | Mr.ツッコマー #mQop/nM. | [edit]
つっこみありがとうございます。

よくわかりませんが
ひとは「てこてこ」とは歩きませんし
「ぷかぷか」とも煙草を吸いません。
きっと だれかがそう言っただけだと思います。
擬音語なんて うそだと思います。
それは 僕の考えでは
おそらくなんにもあらわしてはいないのです。
だから それはなんでもいいんだと思います。
どんな文章がそうであるように
それは 読みながされていく だけのものの
ように 思えます。
【2010/10/06 21:57】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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