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映画以外の光

2010.10.06(23:44)

<戦前>の思考 (講談社学術文庫)<戦前>の思考 (講談社学術文庫)
(2001/03/09)
柄谷 行人

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 10月5日(火)

 会社にいった。
 帰り道、CKさんたちといっしょになって、「バスってこわくて乗れないよね!」という話をした。どこに向かうかちっともわからないじゃないかって全力で話をしたら、「いや、ルート書いてあるから」と言われた。KYさん(空気読める)にも同じことを言われた。KYさん(空気読める)なんかぜったいバス乗れないと思ってたのに。

 柄谷行人「〈戦前〉の思考」はおもしろいことがさらっと書いてあって好きだ。

 
 商人資本は、異なる価値体系の間での差異から利潤(剰余価値)を得るのですが、そのことがわからないため、その利益には根拠がなく、不等価交換だと思われてきました。したがって、商業、あるいは利益の追求は、罪深いことと見なされます。それに対して、近代の市場経済では、商業取引は等価交換です。しかし、産業資本主義もやはり価値体系の差異にもとづいていることに変わりはありません。ただ、それは、既成の価値体系と、技術革新が生み出す価値体系の差異によって得られる超過利潤(相対的剰余価値)によっているのです。
 しかし、そのため、産業資本は、それが存続するために、たえまない技術革新あるいは社会的な関係の革新を必要とします。それが進歩するのは、それは、「進歩」という観念のためではなく、資本が存続するために不可欠だからです。さらに、資本制生産は、信用の体系のなかでなされています。つまり、簡単にいうと、自転車操業のようなもので、少しでもストップすれば崩壊してしまいます。それは、たえず決済を先送りにしている運動です。時折、その決済をしなければならないときがあり、それが危機(恐慌)です。

 これらの現実的アポリアを「思想」的に乗り超えるのは、「美学」のみです。もちろん、美学にはいくつかのタイプがあります。一つは、ヘーゲル的な弁証法です。つまり、矛盾を実践的に止揚していくという弁証法です。それがなぜ美学的なのかというと、矛盾する二項が本来同一的であるということが想定されているからです。いわゆるマルクス主義は、ヘーゲル主義の亜流です。しかし、このような弁証法は、少なくとも、たえず前提に実現すべき目的をもつことになります。また、現実的な変革や進歩を唱えることになります。
 ところが、このようなマルクス主義が壊滅した後に出てきた「美学」は、もはや何かを積極的に表現すること自体を斥けます。カントは、美はインタレスト(利害・関心)を離れたときに成立するといっているのですが、いわばロマン派以後の「美学」は、現実的なインタレストの拒否こそ美を実現するのに不可欠だとみなすわけです。



 柄谷行人は、言文一致体の誕生に際して、「内面というものがあってそれを言葉で表現したのではない。言葉があって内面が生まれたのだ」ということを言っていたように思うけれど、おそらく、おおくのひとが過去のことを考えるとき、そのひとは時間的過去を考えるだけで実際的過去を考えていない。過去を現在の反射としか見ないのなら、それは過去ではなく現在でしかない。「あの頃はよかった」というのはすべて現在にたいする言及であって、過去にたいする言及ではない。ゴダールはある映画監督について「彼なら『私はそれを美しいから撮ったわけではない。私がそれをそんなふうに撮ったからそれが美しいのだ』と言うだろう」と言った。それは、つまり現在を過去の反射として見る態度だったんだろうか。けれども、過去を現在の反射として見るやりかた、現在を過去の反射として見るやりかたにどれくらいの差異があるんだろうか。愛したあとに出会うのか、出会ったあとに愛するのか、そこにどんなちがいがあるんだろうか。そして現在と過去から未来へその光を投射するためにわたしは映画以外のどんな光を必要とするのか。幻想的な剰余価値を燃料にして資本主義がまわっているのなら、わたしたちは他者を信用しすぎているということだ。資本主義者はすべてやさしい。あまりにもやさしすぎるから、こんなにもまわってしまう。ときどき、ばかなんじゃないだろうかと思えるほどに。


 10月6日(水)

 会社にいった。
 帰りが遅くなっちゃったけど、CKさんとAIさんとSSさんが待っていてくれて「ごめんね」って言ったら「勝手に待っているだけだから」って言われた。ごめんねって思った。CKさんと立ち話をしていて、桜井さんはやさしいよって言われた。「わたしはやさしくないでしょう」って言われた。「そんなことないよ」って笑って答えた。「でもこの場面でやさしくないなんて言えないよね」って言われた。そういうものなのかなとわたしが思うのなら、それだけでもうわたしはやさしくないんだと思う。
 わたしはたぶん、だれかがだれかにいだいている気持ちなんていっさい信用していない。もう、いろいろなことがよくわからなくなってしまったけれど、だれかを愛するのにだれかを愛する必要なんてあるのかなと思う。だれかを愛せるとか、愛せないとか、だれかを愛するのにそんなことが関係あるのかなと思う。




コメント
「あの頃は良かった」って口にする評論家もどきの人々は好きじゃないですね。「あの頃」から「現在」に至るまでのプロセス観察を放棄してるような気がして。たぶん、「あの頃は良かった」と言ってる人がタイムスリップして「あの頃」に行ったら、「私鉄の冷暖房、この程度かよ!」と文句たれるのでは?
ところで、「商人資本」って「ベニスの商人」のシャイロックみたいなのも含まれるんですか?あ、ややや、シャイロックは金貸しだ。
【2010/10/07 16:17】 | 上田洋一 #- | [edit]
「あの頃」が「あの頃」というだけで美しいなら
「あの頃」は「あの頃」というだけで美しくないんだと 思います。

> ところで、「商人資本」って「ベニスの商人」のシャイロックみたいなのも含まれるんですか?あ、ややや、シャイロックは金貸しだ。

「商人資本」ってなんでしょうね。
だいたいつねになにを言っているのかわからずに
読んでいます。
【2010/11/09 21:57】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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