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ジゼル・ヴィエンヌ「こうしておまえは消え去る」@にしすがも創造舎

2010.10.31(20:28)

運命ではなく運命ではなく
(2003/07)
イムレ ケルテース

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 10月31日(日)

 なんにも考えないで選んだケルテース・イムレ「運命ではなく」が美しかった。ハンガリー出身の作家で、アウシュヴィッツの話だけれど、わたしが気にいったのは、これが青春小説であることと、強制収容所がとても美しく描かれているてんだった。
 収容所の労働に耐えられなくなり病棟にうつされた「僕」はこんな感想を抱いてしまう。


 探し回る僕の視線の先に、重いものを運ぶ人の列や肩にかついだ棒、その棒からぶら下がり、湯気が立ち、重みでひっくり返りそうな深鍋が現れた。あたりに漂うすっぱい匂いから、砂糖大根とかぶのスープの匂いだとわかった。もう何も感じなくなっていた僕の胸の中で感情の波が高まり、乾ききった目からも数滴の暖かい雫がしたたり、顔をぬらしていた冷たい湿り気の中へ流れこんだ。ただ、それがスープを運ぶところを見て、その匂いをかいだから引き起こされた感情だったので僕は残念に思った。これまで僕があれほどものを考え、知恵をしぼり、理性的に考え、悟りの境地に達したと思ったのに、すべては無駄だった。僕の心の中に、何か小さな声でささやくあこがれみたいな、まるで分別がなくて恥ずかしいのだけど、だんだん強まる言葉が間違いなく湧き上がってきた。この美しい強制収容所で僕はもうちょっと生きつづけていたいなあ、という言葉が。


 あるいは解放後の「僕」にあれこれと訊ねる新聞記者と少年とのやりとりも美しかった。


「いろんなことを見たんだろ、いろんなひどいことを」と言ったけど、僕は返事をしなかった。彼は「でも、大事なことは、もう全部終わったことだし、過ぎ去ったことだ」と続けて、顔を明るくし、ガタゴト走っている通りの家並みを示しながら、今また自分の国に戻ってき、離れていた町を見て、僕が何を感じるかと訊ねてきた。僕は彼に「憎しみです」と言った。彼は黙ったけど、すぐ、残念だけど、君の気持ちはよくわかるよ、と言った。彼の意見では、〈状況によっては〉憎しみにもそれなりの存在意義があり、〈おまけに役に立つこと〉だってあるそうで、僕の言うことはもっともだし、僕が誰を憎んでいるかよくわかっていると付け加えた。僕は「みんなです」と言った。


 「僕」は強制収容所をはじめとするさまざまなものごとを「きた」と表現するほかのにんげんたちにそれらがほんとうはどういうものか必死に説明しようとするけれど、「僕」の言うことはほとんど届かない。「僕」はそれは「きた」んじゃない。時間とともにそれは進んでいったと説明した。彼らはそれを忘れて新しい人生を歩めと諭すけれど、新しい人生を歩むことは不可能で、続けることしかのこされていないと「僕」は言う。「きた」ものにたいしてひとはそれをやりすごせと言うけれども、「僕」にとってそれは「きた」ものではなかった。だから、「僕」はこの小説の最後で強制収容所に「郷愁」を感じ、「次の機会に誰かに質問されたら、そのこと、強制収容所における幸せについて、話す必要がある。」と強く思う。
 ティム・オブライエンは「本当の戦争の話をしよう」で、自分がほんとうには経験していないことを経験したように描き、ほんとうの戦争の話をするためにはほんとうの戦争の話をしてはいけないと言った。わたしはわたしが以前書いたふたつの小説のなかで同じ結末を書いた。生活をやりなおすのではなく続けるんだとわたしは書いた。そのうちのひとつではわざわざそれまでの人生をすべてリセットさせるような装置までつくったのに、そう書いた。わたしはいつもなんにも考えてはいないけれど、そのときわたしはいったいなにを考えていたんだろうとときどき思う。わたしは自分の書いたものが小説ではなくて音楽や映画であればいいと何度か書いた。そう思うことはいまも変わらない。知性、社会、批評、解析、行動、たくさんのやりかたがたしかにあるとは思うけれども、わたしはそのどれにも加担せず、そのどれでもないことによって美しくあればいいと思う。どんな事実や歴史よりも、ケルテース・イムレが描いたようにその美しさになにかを託すことができたらいいと思う。そこにある一瞬を信じたいと思う。そこにある一瞬の永続性を信じたいと思う。柄谷行人は「文学とは文学的なものから離れていくことでしかありえない」と言った。わたしもそう思う。けれども、たとえば高橋源一郎の「『悪』と戦う」などを信じたいとは思わない。わたしが思うのは、たぶん、もうちょっとべつのやりかただと思う。たとえば強度を保つこと、どんなに文学的なものから遠く離れようとも強度を保つこと、それは、あらゆるものを認めようとする態度を示さないことだと思う。たとえば高橋源一郎は「13日間で『名文』を書けるようになる方法」でうそをついている。それは、たったひとつのうそだと思うけれど、たとえば、ブローティガン「アメリカの鱒釣り」を美しく思うその態度は高橋源一郎のやりかたではないはずだと思う。遠ざかりたい。あるいはそうではなく、距離を消したい。遠ざかっては遠ざかるだけだ。なにも見えなくなり、老人になって樹木になって死んでいくだけだ。
 わたしが文章を書くことで、わたしではなく、きみが美しくなればいいと思う。わたしの文章は決してわたしを飾らず、わたしではないものをつねに飾るだろう。わたしではなく、きみなんだと思う。
 
 ということとは関係ないけれども、王子からちんちん電車みたいな電車に乗ってにしすがも創造舎でジゼル・ヴィエンヌ「こうしておまえは消え去る」を見てきた。舞台装置を見たとき、「たぶんこれは今年最高傑作だな…ごくり…」と思ったけれどとくにそういうことはなくて、序盤、深い森のなかで女のひとがずっとストレッチしたり側転したりするだけで、「い、いくらなんでも退屈すぎじゃない?」ってびっくりしちゃった。中盤以降はさすがにそこまで圧倒的なつまらなさはなかったけれど、それは、わたしが「ああ、これはダンスじゃなくて舞台装置を見るものなんだな。ひとの身体なんてどうでもいいんだな」って思っちゃったからで、それはわるい受けいれかたなのかもしれない。霧がもわっとなってなんにも見えなくて、もちろん、それはきれいだけれど、観客席までくるからつめたくて寒くて、かたかたと震えていた。radioheadやbjorkを体現したような舞台だったけれど、ひとはどれくらいその退屈さに耐えることができるんだろうかと思った。わたしは以前、ひとといっしょにいることはその退屈さに耐えていくことだと言ったことがあるけれど、舞台というのはたぶん耐えることをなくすための装置なんだよと思う。その舞台のためにわたしが耐える必要はないから、そこにお金をはらうんだよ。
 1週間禁煙していたけれど、おしいれのなかから買った覚えもない煙草がでてきたから、「お、おくりもの!」と思って吸っている。とくにおいしくない。




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