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五反田団「迷子になるわ」@東京芸術劇場

2010.11.15(00:51)

ショートカット (河出文庫)ショートカット (河出文庫)
(2007/03)
柴崎 友香

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 11月10日(水)

 先週の、金曜日あたりから、CKさんとごはんを食べようって約束をしていたから、だらだらだらだらとなんにも決めないで、それでもわたしがYYくんを誘って、CKさんがHTさんを誘って、4人でごはんを食べにいった。ごはんを食べにいくと言ったのでわたしはふつうにごはんを食べにいくつもりだったけれど、なにも決まらなくて、けっきょく居酒屋にはいって、ちびちびと、11時くらいまでにこにこしていた。
 会社の話とか、仕事の話とか、大学の話とか、きなこの話とかをした。わたしは彼らを好きだけれど、ときどき、もしもわたしたちがいっしょにいてたのしかったり、もりあがったりするのが、ただ「同期としていっしょにいるだけだから」だったらどうしようと思う。だれかといっしょにいられるということが、たとえばそのだれかとどのくらいの時間をいっしょにすごしたかということだけでたくさんの部分がしめられてしまうとしたら、これからさき、わたしはだれともいっしょにいられないんじゃないだろうかと思う。関係が希薄だとしてもいっしょにいられるし、そのことと、わたしが彼らのことを好きだと思うことはいつも関係ない。関係ないからこそそれはいつも希薄だし、そう思えるけれど、それでも、かりにわたしたちがいっしょにいることのすべてが同情だとしても、わたしはだれかを好きになれないわけじゃないと思うな。
「mixiやってる?」とか訊かれて、「やってないよ」と言って、「一瞬もやったことないの?」と言われて、「アカウントのこってるのかな」とかうそをついて、ときどきわたしはなんなんだろう、蠅とかかな、と思ったな。


 11月11日(木)

 会社にいった。じつに平穏な日々だった。とくにこころあたたまることはなかったし、とくにかなしくもなかった。まるで海みたいだった。
 どとーるにいって勉強をして、ひさしぶりに柴崎友香の「ショートカット」を読みかえしたら、ずっとずっと泣きそうだった。手ざわりとか、あたたかさとか、あるいは飲み会とか、たぶん、飲み会というものを世界でもっとも美しく描けるのは柴崎友香だと思うけれど、「だれかを好き」という感情が、特別な感情ではないままに強くあれる、そういうやさしさが好きだと思う。
 毎晩のようにひとりキムチ鍋パーティをしているけれど、あの、食べおわったあとの鍋のなかにごはんをいれて、ぐつぐつ煮て、たまごを落として食べる、おじやとかいう食べもの、世界でいちばんおいしくないですか。


 11月12日(金)

 会社にいった。


 11月13日(土)

 東京芸術劇場で五反田団「迷子になるわ」を見てきた。すばらしかった。今回のフェスティバル/トーキョーは実験的な作品がどうやら多いらしくて、五反田団もそういう感じになっていて、かなりメタ的な要素がはいっていた。メタなものはメタだだけで価値はなくて、メタはメタとなにかひとつ付加されていなけれどわたしは評価できないと思うけれど、五反田団、あるいは前田司郎が抱える「言語への絶対的な信頼性のなさ」がそれを支えていると思う。ここにでてくる女の子は「わたしはなにがわからないかわからないんだ」と言いつづけ、たぶん、そのせいであらゆる関係に束縛されるようなふりをしながらあらゆる関係をすりぬけてしまう。作家はそれを言語的な問題として処理してしまいがちで、「なにがわからないのかわからない」ことは言語の問題にすぎないのにも関わらずそれを言語のなかで非言語的にとらえようとして結果的に言語的なものをいきついてしまう(というかいきついてしまわざるをえない)という問題をつねに抱えていると思うけれども、五反田団がそれをひょいとすりぬけているように思うのは、おそらく、今回の作品ではその「なにがわからないかわからない」という問題を言語的にも肉体的にも実践的にも解決する意志を持たなかったということだと思う。だからこそ、その感覚はたのしいし、そのなんでもなさがとてもここちよかった。ただ、乳首のOFFスイッチはいくらなんでもやりすぎだと思うよ。
 てくてく歩いて、シアターグリーンで悪魔のしるし「悪魔のしるしのグレートハンティング」(演出 危口統之)を見てきた。いつはじまったのかわからないそのやりくち、というものが気にいらず、「こんなもんがおもしろいわけがないだろう」と思って見ていたけれど、とてもおもしろかったのでざんねんだった。この演劇が示したさいこうのことは、ひとは、ほんとうに笑っているのか演技で笑っているのか決してわからないということだと思う。あの気持ちわるい男の子がお菓子で口をぱふぱふさせたとき、風船をふくらませたとき、笑っていたけれど、あれは演技だったんだろうか。わたしは、危口統之はやる気のないふりをしたやる気のあるふりをしたやる気のないひとだと思う。この演劇のなかでおこなわれた演劇がくずだったとするとき、くずの演劇をおこなったその演劇がくずではない証明がどこにあるのか、わたしはわからない。というよりも、完成度の低い演劇にはちがいなかったから、おそらくくずだったのかもしれない。でも、べつに演劇なんてくずでいい。そういうこともある。




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