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突然段ボール プレゼンツ ホーリー・クリスマス・ナイト@円盤

2010.12.26(00:23)

勝手にふるえてろ勝手にふるえてろ
(2010/08/27)
綿矢 りさ

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 12月22日(水)

 会社にいった。

 12月23日(木)

 いいかげん毎日毎日同じ服を着ているのはまずいのではないかと思いながら、入間の三井アウトレットまでがたこんがたこんでかけていって、その途中で綿矢りさ「勝手にふるえてろ」を読んで、すごすぎて勝手にふるえた。


 とどきますか、とどきません。光りかがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、わたしに踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。


 わたしは、いまの日本でいちばん美しく太宰を継承しているのが綿矢りさだと思う。というよりも、彼女はいったいどうしちゃったんだろうと思う。綿矢りさが子供だ、とはぜったい言わないけれども、彼女のなかには幼さみたいなものがあって、しかも、それは成熟しないままけれども決して無垢でもないまま、奇妙なかたちに醗酵してしまっている。そのありかたは「serial experiments lain」というアニメのなかで清純派の女の子がいきなり自慰をはじめちゃったあの場面に酷似している。


 私にとってのニは、デスクに座っているときに精算書を持った彼が話しかけてきて、かがんだ彼のネクタイの先の三角の部分がたれ下がって私の頬にふれたことがあり、それがいやだったという思い出しかない。


 綿矢りさを読めば、いかににんげんが不快な様相をしているかよくわかってしまう。わたしたち、とくに男としてのわたしは存在しているだけで不潔でくだらないものだとよくわかってしまう。それは、黒人を飼いならすあの大江健三郎の短篇よりもわたしの胸にせまってきてこわいくらいだと思う。うえに挙げた引用を読んでびっくりした。綿矢りさにとってすでにはすでに肉体はにんげんのかたちをしてはいないように見える。ネクタイの先の剣の部分ですらもひとつの実感としてわたしを刺す、その肉体と肉体の延長。さらっと書いてあるけれど、こういうことをほんとうに書けるひと(うえに挙げた引用をじっくり読んでほしい、ほとんど日本語として破綻している)はほとんどいない。内面だけはいつもさめきっているくせに、ものだけが肉体としてある。彼女のこころはものでしかない。そして、おおかたのにんげんもそうなのかもしれないと思う。綿矢りさの内面は腐っているだろう。だからこそ、そこにつまった吐かれないままの吐き気が、重々しくわたしの肉体を撃つのだと思う。綿矢りさは現代さいこうのロリータだ。
 洋服と靴とマフラーを買った。にゃー。


 12月24日(金)

 5時すぎには帰った。


 12月25日(土)

 TOHOシネマズシャンテでゴダール「ゴダール・ソシアリスム」を見た。
 ゴダールのベストをあげろと言われたら、「はなればなれに」も「ウィーク・エンド」も捨てがたいけど、「アワーミュージック」をあげたいと思う。「アワーミュージック」を見たとき、「ここには現代の世界にとっておそらくもっとも重要なことが描かれている」と思った。だからわたしは、「アワーミュージック」を見た次の日にも「アワーミュージック」を見たし、その次の日にも「アワーミュージック」を見た。わたしは「現代の世界にとっておそらくもっとも重要なこと」がいったいなんなのか探ろうとしたのかもしれないけれど、いまは、まちがっていたのかもしれないと思う。「現代の世界にとっておそらくもっとも重要なこと」をゴダールがにぎっているのかどうか、わたしは知らないし、そもそも、わたしはゴダールと友達でもないので、ほんとうはそんなことはどうでもいいことだったのかもしれない。「現代の世界にとっておそらくもっとも重要なこと」はたしかに実体のない、そう名づけそう呼ぶしかないものかもしれないけれど、それは、「抽象」とはちょっとちがう。だって、そこには映像と音があったんだから。それは、気配ですらない。映像という確固とした「存在」が、世界からではなく、わたしから重要さをひきだしていた。なにかがそこにある。ありながら、「そこにない」と思い、それを気配、抽象的概念として感じられないなら、それはわたしの限界を露呈してしまっているように思う。わたしは、まだ映像を見ることがうまくできない。タルコフスキーの映画では「救済」を、エリセの映画では「アナ・トレント」を軸にもってくれば、私をそれを包括することができる。救済やアナ・トレントでわたしはそれを気配から確固たるものとして得ることができる。ゴダールではそれができない。もういっかい言う。わたしは、まだ映像を見ることができるほどにはにんげんではない。そして、おそらくもう一生映像を見ることはできないだろうと思う。
 さんざん書いてきたことを、これを期にもういっかい書こうと思う。ひとは、ふつう作品(映画、小説)をつくろうとするときに、こういう物語で、ここで人物にこういう会話をさせて、ここでキーワードを言わせて、ここでこの人物の気持ちがこうなってこうなって、こう盛りあがって、ということをごちゃごちゃ考えてつくるものだと思うけれど、「ソシアリスム」にはそもそも物語どころではなく、「登場人物」すら存在していない。「ソシアリスム」を見れば、「わけわかんない」と思うと思う。それは、物語がいりくんでいるとか、思想が高尚すぎるとか、そんなちんけなことですらない。なぜなら、すくなくともわたしは、「ソシアリスム」の「なにがわからないすらわからない」と思ったからだ。受験勉強とかでも「なにがわからないすらわからない」というフレーズはよく聞かれるし、そうなったらもう、教科書の1ページめにもどるしかない(というのはうそで、ほんとうの教科書の1ページめじゃなくていちばんかんたんな問題集にもどるべきだとわたしは思う。わたしは受験生ではないのでもう関係ないから、そういうことはもう言わない)。ここで問題になるのは、「ソシアリスム」には「教科書の1ページめ」がないということだと思う。「ソシアリスム」にかぎったことではなく、映画には「教科書の1ページめ」なんてない。「1ページめ」を探そうとするから、わたしたちは困惑してしまうんだと思う。「なんだこれ」となると思う。ちがう。おそらく、ここで「ソシアリスム」に対抗するためにわたしのできることは、「1ページめなんてないんだ」と強く思うこと、それだけではなく、「1ページめなんてない」ことを世界への包括として、希望としてきちんと受けとめることだと思う。「ソシアリスム」をどんなに読みとこうとしても、おそらくもうなにもでてきはしないだろう。わたしができることはせいぜい、「ソシアリスム」にしがみつきながらゴダールやほかの監督の過去の作品を亡霊を退治するみたいにたたくことだ。けれど、問題はわたしがそれをしたくないということだ。
「アワーミュージック」の「地獄篇」でのコラージュの映像にはだれかからの視線があった。そこにはたしかに「登場人物」がいた。「ソシアリスム」にはそれすらない。ふつうの映画でいうところの「登場人物」と「ソシアリスム」にでてくる「登場人物」は決定的にちがう。たとえば、凡庸な作家はフィクションをつくるときにそこにでてくる「人物をフィクション化することに失敗し、すぐれた作家はフィクションをつくるときにそこにでてくる「人物をフィクション化することに成功する。そして、凡庸なドキュメンタリー作家はノンフィクションをつくるときにそこにでてくる人物をノンフィクション化しようとし、さらに失敗すらする。すぐれたドキュメンタリー作家はノンフィクションをつくるときにそこにでてくる人物をノンフィクション化しようとし、さらに成功する。「すぐれたフィクションはドキュメンタリーであり、すぐれたドキュメンタリーはフィクションである」とゴダールはかつて言った。岡田利規、カフカ、ベケットら、「ほんとうにすぐれた作家」たちはフィクションをつくるときそこにでてくる人物をノンフィクション化しようとする。けれども、わたしが「ソシアリスム」を見て「なんだこれ…」と思ったのは、おそらく、ゴダールがこの映画において人物へのフィクション化、ノンフィクション化を徹底して排除しているからかもしれないと思う。どんな場所よりも、ゴダールはひとりの場所に立っているように見えた。「もうなにも言うことはない」というクレジットで、この映画は閉じられる。しかしそれはわたしには希望にすら見えた。時間、空間がいっしょくたになり、あたかも全存在について描かれているような感触を受けるプルースト「失われた時を求めて」よりもゴダールは直接的な場所に立とうとしたと思う。孤独な映画だと思う。映画のなかの物語や人物が孤独なのでは決してない。映画自体がすでに孤独なんだと思う。「だれにも理解されない」という安っぽい、愚劣な感傷ですら、ない。ひとりになったゴダールが映像と同じ位置にたっている。あたかも、ゴダール自体が映像で、映像自体がゴダールだったかのような印象を受ける。その意味で、「もうなにも言うことはない」はメッセージや主張ですらない。言葉ですらない。
 …いま日本でもっともすばらしい音楽家だと思う友川かずきに「父を買う」という歌がある。なにを歌っているのか聞きとることすら困難なこの歌は、前半は歌詞があるけれども、後半は歌詞が消失し友川かずきのさけびだけがえんえんと流れる。ふつうの音楽家は歌をつくろうとして歌を消してしまう。それは悲劇だ。けれどもいまならばそれに同情しない。歌をつくろうとして歌を消してしまう程度のにんげんの歌を聴かないその罪悪がわたしにあるものか。
 友川かずきには歌をつくる以前に歌があり、友川がうたうということは歌をつくる以前の歌をうたうということだった。ゴダールにしてもそうだ。ゴダールの映像はすでに映像をつくる以前の映像としてあり、だからこそそれは消えない。
(しかしながら、映像と音楽のレベルがちがう。今年見たいちばんすごい映像はカネフスキー「ぼくら、20世紀の子供たち」だけれど、その次にはすごかったと思う。来年もういっかい見にいこう。「第3楽章」でやたら感動しちゃった)
 高円寺に向かおうとして、電車の悪意にはばまれ、中野から2回も東中野にひきかえされて、やっと高円寺について、管城さんと合流してごはんを食べた。ハンバーグを食べた。チョコレートをもらったからありがとうって思った。管城さんはインド人(かあるいは俺)を軽蔑していたので、「インド人(かあるいは俺)を軽蔑しちゃだめだよ」って言ったけれど、あんまり聞いていないみたいだった。生まれてはじめてさーてぃわんあいすくりーむを食べた。ぱちぱちするアイスをすすめられたけれどもわたしはかしこいのでふつうのアイスを食べた。高円寺の円盤で「突然段ボール プレゼンツ ホーリー・クリスマス・ナイト」を見た。水中、それは苦しいのジョニー大蔵大臣がいて、あらためて見てもジョニー大蔵大臣はやっぱり大臣じゃなかったけれど、このひともやはりゴダールくらいにはレベルがちがう。曲は全部同じに聞こえるし、たとえば「安めぐみのテーマ」なんて安めぐみの名前とプロフィールを絶叫しているだけの曲で、もう「なんでこのひとこんなひとになっちゃったの…」という強力な印象を受けたし、曲名忘れたけど歴史上の人物の歌なんてもう歌ですらない。ほんとうにすごいと思う。三角みづ紀さんの朗読は不思議なぱうわあで声でゆやんゆよんとなっていてうっとりしていた。ようやく「はこいり」を買えた。ほくほく。
 管城さんと雑貨屋さんにいって、私はなにも買わずに管城さんは踊るうさぎを買っていた。管城さんはこの平和なにっぽんで財布を盗まれていて、でも新しいかわいい財布をもっていて「ぴんく!」と自慢された。うらやましかった。電車にのって、新宿で「ばいばい」って言った。




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