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わたしの戦争、わたしの貧困

2011.01.04(00:29)

ふたりの人魚 [DVD]ふたりの人魚 [DVD]
(2004/03/26)
不明

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 1月1日(土)

 なにもしなかった。昼すぎまで眠って、知らないひとがうつっているテレビを見て、深夜になるとロウ・イエ「ふたりの人魚」を見た。

 2010年にはしあわせの限界を感じた。週5日間会社に通って、会社が終わったら本を読んだり、文章を書いたり、ごはんを食べたりしていた。週末には映画を見たり、舞台を見たり、絵を見たりしていた。ときどきは好きなひとたちといっしょに遊んで、どこへもいかないままの会話を交わした。どこへもいかないままの会話はときにとどまることを忘れて、どこかへたどりつこうとしてしまった。だれかを傷つけたかもしれないことが起こり、わたしを傷つけたかもしれないことが起こった。まるで村上春樹が描いた圧倒的に落ちついた日々がわたしに訪れたかのようだった。それはわたしにとっていくらか理想的な生活のようにすら思えた。わたしには、どうしても、わたしのいまの生活がこれ以上よくなるとは思えなかった。わたしはたのしかったんだと思う。生きていることがたのしく思えたんだと思う。会社づとめはなんの価値もなく、この世界の温度の低い醜悪さをよりあつめてかためたような様相をていしていて、とくに上司たちが語っていることの価値や意味はほとんど理解できることですらなかったけれども、程度の低い醜悪さがわたしを焼くそのやりかたをもふくめてわたしはたのしむことができたように思う。好きなひとにたいする、わたしが想像していたおおきな絶望はやはり絶望ですらなく、おそらくはほんとうにはかなしくもなかった。わたしはわたしが好きなひとを同時にきらいなように思った。うまくかなしむこともできず、うまく絶望することができなかった。子供のころからのいちいちをかぞえて、わたしは、純粋にこの世界には自分が感じたことすらないおおきなたのしみやおおきな絶望があると思っていた。でもそうではなかった。おそらく、わたしはどんなことが起きても絶望もしないだろうと思った。どんなことが起きてもしあわせにはならないだろうと思った。すばらしい本やすばらしい映画やすばらしい音楽はたしかにある。あるけれども、わたしはそれを個々のものではなく総体としてまとめ、わたしの決定的な外側に配置し、それを慣れた手のひらでにぎりしめて針としてわたしの表皮をちくちくとし刺激するやりかたでしかそれらを受けることができなかった。そして、それはわたしの想像するかぎりわたしの将来においての永遠のやりかたになるだろう。感性の限界だ。むかしからそうだったけれど、それが露呈しはじめただけのことだ。わたしにはこのさきいっさい、しあわせなことはなにも起こらない。かなしいことはなにも起こらない。わたしはわたしが好きなひとのことを好きだと思うけれど、それと同時にどうでもいいと思う。好きなひとが消えてしまったら好きなひとは消えてしまうだろう。現実の好きなひとはわたしのなかの好きなひとと二重にしか存在しえない。現実の好きなひとが消えてしまったらわたしのなかの好きなひとの投射先は消えてしまう。それは、しょせん映画と同じちからでしかない。わたしが好きなひとが映画なら、見終わったあとにそれは消えるだろう。あたりまえのことだ。それをかなしむべきなのか、わたしにはよくわからない。けれども、かなしむことがわたしにはできないことがよくわかる。わたしにはこれから決定的な映画はない、決定的な小説もない、決定的な音楽も、決定的なにんげんもいない。わたしは、わたしの戦争も、わたしの貧困も、わたしの世界の終わりも、かなしむことができない。
 2011年にはなにも起こらないだろう。なんの期待もない。だれが死んでもいい。だれがかなしんでもいい。だれも救おうとは思わない。だれからも救われようとは思わない。そして、そういうやりかたが許されるようなやりかたでだれかといっしょにいたいと思うし、だれかを好きになりたいと思う。それはしあわせですらない。それでいい。それがいい。

 うえの文章はべつの場所に書こうとして、やめて、ここに書いた。わたしにはわたしの書く場所があり、けれども書く場所は書くことによってしか獲得できない。書かれるまでそれは仮定としてしかあたえられない。愛も、かなしみも。ほかのひとがあたえられた仮定をどう実体化しているのかわたしが知るはずもないけれど、わたしが実体化するという幻想を獲得するのは書くという行為でかまわないと思った。わたしはこの場所を獲得したい。あなたの場所ではない。俺の場所でもないが。


 1月2日(日)

 親戚の家にいって、会社の話をした。すき焼きを食べて、親戚のおじさんがうったおそばを食べた。わたしはおそばは1年に1回しか食べない。


 1月3日(月)

 喫茶店にいって、イヴォ・アンドリッチ「サラエボの鐘」を読んだ。文章を書いた。あとはなにもしなかった。なにも。渡辺直美をひさしぶりにテレビで見たら、すごくおもしろかった。
 どんなに傲慢だと思われてもいいから、作品をすすめるひとになりたい。作品をすすめるのではなく作品の名前をだすという行為において来襲を告げるひとになりたい。
 古谷利裕が「小説というものはいつかなくなるでしょう。しかし、小説を生みだしたにんげんというもののちからは形態を変えてのこるでしょう」と言っている。映画も、音楽も、消えるかもしれない。けれど、わたしが思うのはわたしがどうあったらしあわせになれるかということでしかない。それらが少数になればなるほどわたしは少数派としての感覚に酔うかもしれない。それでいいじゃないか。渋谷HMVが過去にどんな役割を果たしていたとしても、それがなくなっても、ひとがひとにものをすすめるという営為は存続している。たとえば、おそらくイヴォ・アンドリッチなんて知っているひとはほとんどいないだろう(わたしだってだれだか知らない)、けれどわたしがイヴォ・アンドリッチをすすめることとあなたがイヴォ・アンドリッチを読むか読まないかにはいっさい関係ない(実際、「蛇」以外はたいしたことないのでべつにすすめない)、関係ないというありかたをふまえてだれもが無関心でいられるように名前だけが墓碑銘のように散乱していって、それでいいじゃないか。すくなくとも、そういう風景しかわたしには見えない。

 2010年でおもしろかった本

 大江健三郎「万延元年のフットボール」
 ドストエフスキー「賭博者」
 バタイユ「青空」
 宮台真司「日本の難点」
 小林泰三「脳髄工場」
 ブローティガン「エドナ・ウェブスターへの贈り物 故郷に残されていた未発表作品」
 黒田喜夫「黒田喜夫全詩」
 水無田気流「音速平和」
 ボーヴォワール「人間について」
 高橋源一郎「『悪』と戦う」
 トルストイ「トルストイ民話集」
 ヴォネガット「国のない男」
 ドゥルーズ=ガタリ「カフカ―マイナー文学のために」
 ケッチャム「老人と犬」
 橋本治「日本の行く道」
 ジュネ「女中たち・バルコン」
 尾崎放哉「尾崎放哉随筆集」
 藤野可織「いやしい鳥」
 加藤典洋「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」
 ブコウスキー「ありきたりの狂気の物語」
 綿矢りさ「勝手にふるえてろ」
 ソンタグ「この時代に想う テロへの眼差し」


 2010年でおもしろかった映画

 中島哲也「告白」
 ジョージ・A・ロメロ「サバイバル・オブ・ザ・デッド」
 アントニオ・レイス、マルガリーダ・コルデイロ「トラス・オス・モンテス」
 ヤスミン・アフマド「タレンタイム」「ムアラフ」
 ハル・アシュビー「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」
 神代辰巳「四畳半襖の裏張り」
 ゲオルギー・ダネリヤ「不思議惑星キン・ザ・ザ」
 アレハンドロ・ホドロフスキー「エル・トポ」
 ヴェラ・ヒティロヴァー「ひなぎく」
 キム・テギュン「クロッシング」
 ツァイ・ミンリャン「西瓜」「楽日」
 ゴダール「映画史」
 パク・チャヌク「渇き」
 ダリオ・アルジェント「サスペリア」
 ポン・ジュノ「母なる証明」
 ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ「マクナイーマ」
 ヴィンセント・ムーン「花々の過失」
 テオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」

(これは 新年の抱負だよ! 今年もよろしく!)




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