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カンディンスキーと青騎士展@三菱一号館美術館

2011.01.22(14:42)

パンズ・ラビリンス 通常版 [DVD]パンズ・ラビリンス 通常版 [DVD]
(2008/03/26)
イバナ・バケロ セルジ・ロペス マリベル・ベルドゥ ダグ・ジョーンズ

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 1月16日(日)

 三菱一号館美術館で「カンディンスキーと青騎士展」を見てきた。フランツ・フォン・レンバッハ「自画像」、フランツ・マルク「虎」、カンディンスキー「印象Ⅲ(コンサート)」がとにかくすばらしくて、この3つを見ることができただけでもいったかいがあったなあと思った。レンバッハはとにかく世界でいちばんかっこういいおっさんにちがいないと思うし、マルク「虎」はとにかくかっこういいし、「印象Ⅲ」はとにかく黄色がきれい! にゃー!
 画家について、わたしはそのひとがその絵を描いたならそのひとにはその風景が見えていたんだと思う。ピカソにはたぶん世界があんなふうに見えていたんだろう。カンディンスキーはシェーンベルクのコンサートを聴いていえに帰り一晩で「印象Ⅲ(コンサート)」を描いた。キャンバスを横断する黄色はそのときのコンサートに実際にあったものではないにちがいないけれど、わたしたちにとって、おそらく実際にあったかどうかなんて関係なくて、カンディンスキーにとってあったかどうかだけが問題とされると思う。それは幻想でかまわない。「わたしには世界がこんなふうに見えている」ということは幻想でかまわない。画家は目に見えるものだけを描くだろう。けれども、「目に見えるもの」のその「目」の持ちぬしはだれだろう。すくなくても、わたしではない。おまえでもない。だから、わたしは画家に甘えない。画家は「わたしやおまえの目に見えている世界」だけは決して描かない。同じように、作家は「わたしはおまえの気持ち」だけは代弁しない。決して。だから、わたしはだれにも同情しない。だれにもやさしくしない。
 抽象的絵画の発生はモネにあるとやらなにやら書かれていて、わたしは美術史的なものにはとんとうといけれど、印象派と呼ばれるモネの描いていたものがわたしたちが実際に見るような現実にそくしていたとしたら、すでに、現実は手におえないほどに抽象的で、ばらばらだ。たやすくひきさかれているし、わたしは、わたしたちはよくこんな現実で生きていけるなと思う。
 ゴダール「ソシアリスム」の色彩の感覚、エリセやタルコフスキーが世界を明暗で切りとったフェルメールのありかただとすればゴダールのそれは世界を原色で切りとったフォーヴィズムのありかただと思う。わたしの知るかぎり、いま世界でそんなふうに映像を撮ろうとしているのはゴダールしかない。ゴダールの青は青が青であるよりも青だし、ゴダールの白は白が白であるよりもよほど白い。色がものに従属してはいない。
 恵比寿ガーデンシネマにいってギレルモ・デル・トロ「パンズ・ラビリンス」を見た。ファンタジー映画だと、「ロード・オブ・ザ・リング」、ターセム「落下の王国」もすばらしいと思うけれど、「パンズ・ラビリンス」もすばらしかった。スペイン内戦下のパルチザンとの戦いという現実とファンタジーが組みあわさっている映画で、わたしが気にいったのは、とくに空想よりも現実のほうが圧倒的に暗く、悲劇的なところだと思う。たとえば、巨大蛙が吐きだす虫、顔に手をにょろってあてて追ってくる人食い、それらの描写はふんだんにグロテスクに処理されているけれど、それらよりも、破水しちゃって血をどばどば流しているお母さんのほうがずっとグロテスクだと思う。一貫して、現実をおそろしく、空想を美しく描いていて、この映画のラストの悲劇もその描きかたが前提にあってなりたつものだと思うけれど、わたしがそのラストについてもやもやとした感じを受けたとしたならば、わたしは、たぶん、現実か空想かどちらかを信じていないということだと思う。空想が美しいということじたいは空想かもしれない、すくなくとも、その危険じたいはつねにはらんでいる。どちらかを選ぶ、という選択は、選択じたいつねに愚かしい。わたしたちは選ばなかったものをふくんで選んだものを選ぶしかない。どちらかを選ぶことはそのどちらをも選ぶということだ。ただ、わたしたちには無限のえらびかたがあって、かなしみながら選ぶのか、たのしみながら選ぶのか、傷つきながら選ぶのか、わたしたちにはそういうものしかなくて、ほんとうは、「なにを選ぶか」なんてたいした問題じゃなくて、問題は、いつも、いつも、「どう選ぶか」でしかないのに、わたしはいつになってもそういうことにうまく自覚的になれない。


 1月17日(月)

 どうも昨日から関節が痛いなと思って、「パンズ・ラビリンス」を見ているときも何度もぞくぞくしていたから、「おかしい!」と思って熱を測ったら37度を突破していた。重症だ!と思ったけれど会社にいった。帰って寝た。


 1月18日(火)

 風邪がなおらなくて、それでも薬をちゃんと飲んでいたら朝になると熱がわりかしさがっちゃってそのせいで「会社休みます!」と電話する勇気がだせなくて、会社にいってしまう。帰って、薬を飲んで、ドストエフスキー「白痴」が途中だけれど読む気がしなくてなぜかジャック・ケッチャム「オンリー・チャイルド」をずっと読んで眠くなったら寝た。


 1月19日(水)

 あいかわらず風邪がなおらない。寒い。会社でがたがた震えまくって、同期に「この部屋寒くない?」と訊くけれど、「寒いけれどそんな震えるほどじゃない…」とひかれる。寒いよう…。家に帰って眠る。
 生活は荒れはてて、使えるお皿はいちまいもなく、あたりには桃の缶詰の残骸がぺらぺらと散らばっていた。こういう光景を見ていると、ほんとうにまわりのにんげんなんてどうでもよくなってくると思った。ずっと体調のわるいままなら、だれのことも気にすることなく、花のように冷徹に、人間同士のことを考えることなく暮らしていけるなと思った。


 1月20日(木)

 もういいかげん嫌気がさして、「午後帰っていいすか?」と言って午後に帰った。とぽとぽ歩いて医者にいくと、お坊さんみたいなお医者さんが長いめんぼうをわたしの鼻のおくにつっこみ(痛いよう…)それをじっと見て、「A型のインフルエンザですね」と言った。ほう!
 べつに体調がわるくないのでドストエフスキー「白痴」を読みおえた。ドストエフスキーのすばらしいところは、このひとはあきらかに文学史上さいこうの文豪だろうに、あきらかにふざけまくって小説を書いているところで、何度も笑ってしまうからすごい。「白痴」にかんしては上巻はそうでもないけれど下巻にはいってからアグラーヤのかわいさがもう限界突破していて、ひとりきゅんきゅんしまくってじつにあぶないところだった。


「ここにはそんな言葉を聞くだけの値打ちのある人なんか、ひとりだっておりませんよ!」アグラーヤは、むきになって言った。「ここにいる人たちはみんなみんな、あなたの小指ほどの値打ちもないのです、あなたの叡智にも、あなたの感情にも! あなたは誰よりも潔白で、誰よりも高潔で、誰よりもりっぱで、誰よりも善良で、誰よりも賢いかたなんです!……ここにいるのは、あなたがいま落したハンカチをかがんで拾いあげる値打ちすらない人なんです……なんのためにあなたはご自分を侮辱して、誰よりも低いところにご自分をお置きになるのです?」

「さあ、まいりましょう!」アグラーヤは呼んだ。「公爵、あたくしの手を取ってくださいな。ママ、かまわないでしょう、あたくしを断った花婿さんですもの? だって、あなたは永久にあたくしを拒絶なさったんでしょう、公爵?」



 ドストエフスキーの描く女の子はみんなかわいくて好き。

 
 1月21日(金)

 いんふるえんざがなおったみたいなので、暇で、こまっている。こんなときは日本文学全集だろうと思って、集英社版の「葛西善蔵 嘉村礒多」を読んでいるけれど、ページをめくってもめくっても「私は貧乏だ、家を追いだされてしまう…」ということしか書いていない…すごすぎるぜ…日本文学…。
 もちろん、ずっとこんなもの読んでいるわけにはいかないのでイタロ・カルヴィーノ「まっぷたつの子爵」を読んだ、ら、あまりにもおもしろすぎてびっくりした。


「もしもおまえが半分になったら、そしてわたしはおまえのためにそれを心から願うのだが、少年よ、ふつうの完全な人間の知恵ではわからないことが、おまえにもわかるようになるだろう。おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。そしておまえはすべてのものがまっぷたつになることを望むだろう、おまえの姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義も、みな断片でしか存在しないからだ」


 
 ドストエフスキーも、プルーストも、ジョイスも、ジュネも、葛西善蔵も、わたしはだれにもすすめようと思わない。けれども、わたしは、カルヴィーノやブローティガンやポール・オースターやボリス・ヴィアンならひとにすすめたいと思う。プルーストをすすめることはやさしさではないけれど、きっと、カルヴィーノやブローティガンをすすめることはやさしさなんだと思う。世界にそういうやさしさがありえたことを体感しておくことが、いつかわたしを愛してくれればいいと思う。


 わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
 たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたりする。――誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。
 それがわたしの名前だ。
 そう、もしかしたら、そのときはひどい雨降りだったかもしれない。
 それがわたしの名前だ。
 あるいは、誰かがあなたになにかをしろといった。あなたはいわれたようにした。ところが、あなたのやりかたでは駄目だったといわれた――「ごめんな」――そして、あなたはやりなおした。
 それがわたしの名前だ。
 もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰かけていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。
 それがわたしの名前だ。
 それとも、あなたはどこかまで歩いて行ったのだったか。花がいちめんに咲いていた。
 それがわたしの名前だ。
 あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたのかもしれない。あなたを愛している誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとしていた。触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。
 それがわたしの名前だ。
――ブローティガン/西瓜糖の日々


 わたしは、ほんとうにやさしいひとはブローティガンとサリンジャーしかいなかったんじゃないかとときどき思う。すくなくとも、ブローティガンの文章はだれよりもやさしい。だれよりも。
 たとえば20世紀最高の文学と呼ばれるプルースト「失われた時を求めて」、ジョイス「ユリシーズ」を読む一般的な意味はほとんどないと思う。それをだれかにてわたそうともやっぱり思わない。文学も、音楽も、映画も絵画も、難解だと言われるものもあるし、それを楽しむことができるまでにずいぶん我慢する必要があるものだってある。「わざわざそんな我慢をしてまでそれらを楽しむようになる必要があるか?」と言われたことがあった。「ないよ」と俺は答えた。でも、それらをむりしてたのしめるようになるほどにまで耐えて「好きなもの」をつくらないと俺にはほんとうに好きなものなんてないんだよと思った。俺は生きていてもやることなんてひとつもないし、人生における目標なんてものもひとつもないんだよと思った。だから俺は死ぬまで必死で暇つぶしをするしかないんだよ。暇つぶしのためになにかやだれかを好きなふりをして、なにかやだれかを軽蔑しつづけるしかないんだよ。
 やさしさは冷酷で、わたしにはいっさい関係しない。やさしさはわたしとは関係なくやさしい。


 1月22日(土)

 あまりに暇で発狂しそうなんだけれど、どうしよう。
 AV女優へのインタビュー集、永沢光雄「AV女優」を1年ぐらいかけてちびちび読んでいたんだけれど、暇にまかせて読みきった。すばらしい話がぼんぼんでてくるんだけれど、なかでも刹奈紫之がすばらしかった。小学校のころから男性の同性愛に興味津々だった彼女はコミケで知りあったその手のマンガの先生に「あなたのマンガってとってもエグイわ。あなたって中学生のくせに、もう鬼畜ね」と褒められそのマンガの先生の部屋に遊びにいったらみんなラムのコスプレとかして乱交していて「はい、これ」とスクール水着をわたされて乱交しまくって、とかもうすごい話ばっかり書いてあってびっくりした。
 来年結婚する予定の彼女は、結婚式についてこう語っている。


「パーティではね、二人が今まで出たビデオを上映して、最後は互いに浣腸しあって互いに出したウンコを食べようと思ってるの。ハハハッ、みんなびっくりするだろうな。そこにはわたしの両親も呼ぶつもりなんです」
「そんなパーティに御両親を呼んだら、もしかしたら御両親は自殺しちゃうかもしれないよ……」
「それでもいいの。わたし、親なんかいなくなればいいと思ってるから」



 昨日、前衛いけばな作家の中川幸夫のことを知った。わたしがすごいなと思ったのが、もうそれがぜんぜんいけばなじゃないということだった。もしかしたらいけばななのかもしれないけれど、そもそもわたしはいけばなについてなにも知らないのに前衛いけばなのことなんかもっと知るわけがないので、なにもわからない。たとえば、自由律俳句で有名なのは尾崎放哉と種田山頭火だけれど、放哉の作品なんか、


 咳をしても一人


 とか、山頭火は、わたしが世界でいちばんすてきだと思う次の俳句を書いたひとだけど、


 月のあかるさはどこを爆撃してゐることか


 とかで、はっきりいえば、もうぜんぜん俳句じゃない。もしかしてこれを俳句たらしめている文学的根拠があるのかもしれにけれど、わたしは俳句はぜんぜん知らないので、やっぱりわからない。気になるのは、前衛いけばながいけばなである必然があるのか、自由律俳句が俳句である必然があるのか、ということで(たぶんないんだろう)、ないなら、いったいこういうのはどういうことなんだろうかと思う。デュシャンはトイレに自分のサインをいれて「泉」とか名前をつけて美術展に出品した。モナリザに髭をつけたものを作品として発表し、その髭を消したものを作品として発表した。デュシャンはばかだけれど、つまり、作品のカテゴライズがとっくに破壊されているのならば、わたしたちがなにかを分類しようとする感覚がとっくに破壊されているということだと思う。わたしはだれかとだれかの区別がもうずっとうまくつかない。かなしみとかなしみ以外の感情の区別もつかない。でも、そんなことはほんとうはたいした問題じゃないはずだ。カテゴライズなんて、わたしたちが作品にたいする不安に耐えることができないというだけに問題にすぎない。わたしはいつまで作品におびえればいいんだろう。いつまでにんげんにおびえればいいんだろう。




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