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ひとはばらばらの時間のなかで、ばらばらの場所で死ぬべきだ。

2011.01.31(01:48)

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(1999/10/22)
ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ 他

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 1月29日(土)

 お昼まで眠って、それから新宿武蔵野館でマシュー・ヴォーン「キック・アス」を見た。クリストファー・ノーランの「バットマン ビギンズ」、「ダークナイト」(は見てない)は、たぶん、アメコミをメタ化させた作品ということでいいと思うんだけれど、「キック・アス」もそういう流れで、こういうのが流行っているんだろうか。「ダークナイト」に関して、どこかでだれかが9・11テロ以降の世界のありかたを象徴している作品だと言っていたように思う。善(正義)と悪が混沌としている世界、正義を行なうごとに悪になっていく世界、のような。「キック・アス」でも正義に燃えて悪人に殴りかかっていくアーロン・ジョンソンは「自警団ぶった殺人狂だぜ」と言われる。彼らの言いぶんはただしいと思う。アメリカは「正義」を口にしてイラクにせっせと爆弾を落としにいったし、日本はそれに賛同した。アメリカにたいして「自警団ぶった殺人狂だぜ」と言うのはもちろんかんたんだけれど、そう言ってもしかたないと思う。ソンタグは「もしもかりに明日イスラエルがパレスチナ建国を認めたとしても、テロはやまないだろう」と言った。自爆テロを起こしたひとたちの気持ちをわたしたちは知ることができない。もちろん、彼が死んでしまうからだけれど、かりに生きていたとしても、わたしたちはたぶん自分をふくめた他人の気持ちなんてひとつも知らないままに生きて死んでいくんだろうと思う。おそろしいことは、たぶんわたしたちのほとんどが「なぜ9・11テロが起こったのか」を知らないということだと思う。あるひとは「知性がなければ他人を愛することすらできない」と言った。「近代が生まれてはじめてにんげんは恋愛ができるようになった」と言ったひとがいた。愛と呼ばれるものがあり、あたかもわたしたちはそのことについてよく知っているようにふるまうけれども、すくなくとも愛が物体ではない以上、わたしたちはそれを知ることができない。「これが炊飯器だ」と言うように、わたしたちは「これが愛だ」とは言えない。裏切り、男色、盗みを美徳として描いたジャン・ジュネをわたしは美しいと思う。すべては相対的に語られるしかないのだと思う。ある種の数学的に「三角形」と呼ばれるものと「円」と呼ばれるものをわたしたちは区別して考えている。三角形と円と呼ばれるものはちがうと知っている。けれども、それはそう教えられたからにすぎない。ある種の数学では「円」も「三角形」も同じものとして扱われている。ユークリッド空間では平行線は交わらないけれど、それはただそれがユークリッド空間というだけで、非ユークリッド空間では交わる。わたしたちの認識の問題にすぎない。わたしたちは他人の愛(のようなもの)を見て、わたしたちがこころのなかに思う感情を「かりに」愛と名づけているにすぎない。近代文学とはけっきょくのところただたんに愛のようなものを愛と名づけただけのことだと思う。同じように、わたしたちはある種のことをテロと呼ぶ。けれど、わたしたちはそれがテロであるかどうかはぜったいにわからない。安川奈緒は「ひとつの事件で死んだにんげんたちをひとくくりにして語ることは野蛮だ」と言った。「ひとはばらばらの時間のなかで、ばらばらの場所で死ぬべきだ」と言った。わたしは彼女を認識を美しいと思う。テロも、愛も、しょせん認識のしかたのちがいだけだとしたら、わたしたちはテロを愛と呼ぶことも、愛をテロと呼ぶこともたやすい。それならば、けっきょく問題になるのは、わたしたちがそれを語るやりかたや見るやりかただけだと思う。ゴダールは「ひとは字幕があると映画を見なくなってしまいます」と言った。「字幕を読んで、そこにブラッド・ピットがうつっているか確認しているだけなのです。けれど、私の映画にはブラッド・ピットがうつっていないので、見ているひとは困惑してしまうのです」と言った。ゴダールが提示したことは、わたしたちは「映画を見ているときにその映画を見てはいない」ということだった。わたしたちはあまりにもだまされすぎてしまう。ある文章が書いてあって、それが物語みたいになっていると、わたしたちは「小説だ」と思う。けれど、それが小説かどうかはわたしたちにはわからない。高橋源一郎はだれか(へーげる?)の言葉をひいて「対立があるところにほんとうの対立はないのです」と言った。正義と悪、テロと対テロ戦争、イスラエルとパレスチナ、中国と日本、純文学とエンターテインメント、むやみと対立項を増やすだけで「問題提起」だと思うのは愚かなことだと思う。わたしがなにかついて語るとき、わたしはそれがわたし固有のなにかであってほしいと思う。わたしはたしかにほとんどのエンターテインメント小説をごみくずだとを見下していて、見下しているけれど、だからエンターテインメント小説によりそいながら「すばらしい」と逆説的に言うのは、純文学によりそいエンターテインメント小説を見下しているのとなにも変わらない。わたしの固有は世界や社会と対立する。けれどそれが対立するならわたしの固有は世界や社会となにも変わらない。わたし自身だと思っているのは世界のありかたにすぎない。それはくだらないことだ。すごくすごく、くだらないことだ。そのくだらなさやかなしみに耐えるために、たぶんひとびとは文章を書き、絵を描いてきたのだと思う。絵や映画が美しいのは、そこに見方しか存在していないからだ。
 ということとは関係なしに「キック・アス」はすごくおもしろかったんだけれど、さいきん、ぐろい映像に耐性がなくなってきている気がする。電子レンジ的なものににんげんをいれてぱーんとはじけちゃうシーンがあった。ぱーんとはじけることは予想ができてしまうので、どうしても直視できない。ホラー映画などの残酷なシーンはなぜか暗いので目によいので見るけれど、アクション映画はちょっとこわくて見ることができない。こわい。それにしても両手にナイフや銃をにぎりしめ、ばったばったとマフィアを虐殺していく11歳のクロエ・グレース・モレッツの圧倒的なかわいさはどうしたことだろう。かわいい女の子がでているだけでその映画はすばらしい映画だということは決まっているけれど、クロエ・グレース・モレッツのスカートがちょうかわいいなあと思ってスカートばかり見ていた。ロリコンでよかった。
 レオス・カラックス「ポンヌフの恋人」もとてもひさしぶりに見た。やはり花火のシーンがきれいだったからきれいだったなあと思った。最初見たとき「微妙につまらないなあ」と思ったものだけれど今回も「微妙につまらないなあ」と思った。たぶん、ドニ・ラヴァンがあまり好きじゃないんだと思うけれど。フランス映画史上さいこうにお金がかかっていることでも有名で、それは南仏にパリをつくっていたからだということだけれど、そのパリの街っていまどうなっているんだろう。ポンヌフの橋は南仏にもあるってことなんだろうか。そういうふうなことばっかりが気になるし、なんで実際のパリで撮らないんだろうか凡人のわたしにはさっぱりわからない。
 言語が英語の映画の予告編を見ると、その全部に「アカデミー賞」という文字がはいっているような気がするんだけれど、「アカデミー賞にもっとも近い」とか「アカデミー賞ノミネート」とか、ものすごいことがいっぱい書いてあって「どういうことなんだろう」と思う。でも、たぶんそれはそういう宣伝のしかたをしているひとたちもそういう宣伝のしかたを「ばかばかしい」とはんぶんくらい思いながらしているんだろうなとなんとなく思う。でも、たとえば GALAXY Tabの「シャイな人にもSNS」がたとえばわたしのようなひとを傷つけるたぐいのものだとつくっているひとはぜんぜん意識していないんだろうなとなんとなく思う。
 ところで、さいきんみんな「日韓戦がどうたら」ということをあちこちで話していたけれど、なんの話をしているのかさっぱりわからない。卓球とか?


 1月30日(日)

 お昼に起きた。クリーニング屋さんにいった。髪を切った。近くの映画館で「嘘つきみーくん」を見ようと思ったけれど、めんどうくさくなってやめた。どとーるで勉強をしたり本を読んだり文章を書いたりして、もすばーがーで勉強をしたり本を読んだり文章を書いたりした。サマセット・モーム「月と六ペンス」をずっと読んでいるけれど、すごくおもしろい。「なんだよモームって! 牛かよ!」っていままでばかにしていてごめんねって思った。ストルーヴがほんとうにさいこうだと思う。
 うちのアパートのとなりに家がたって、でもそれはいま売りにだされていて、さいきん、朝から夜まで案内のひとがずっとその家にたっていて、わたしがでかけるたびにそのひとと会うものだから気まずい。だれがその家買うんだろう。わたしは30人くらいの女の子が越してきて、「あまったから食べてください!」と言ってぶりだいこんとか持ってきてくれる日常に突入していくハートフルな展開になると信じている。




コメント
あなた程結果を出してはいませんが、私もワナビです。
どうぞよろしくお願いします。
【2011/01/31 08:24】 | まさとし #- | [edit]
雨森 零さんの首飾りを中学生の時に読み鮮烈を抱いたことをふと思い出して、雨森零さんについて調べていたら此処に辿り着きました。
貴方に対して、映画や漫画や小説など、興味の幅が広くて素晴らしいと感じた一方で、
お仕事については恐ろしく無気力な印象を受けました。
上司に虐げられるかもしれない行動を自らが選択して行い、そのような選択を自らが行ってているという自覚もありながら、
上司に虐げられて喜んでいるかのような文章を書かれているのが私には不可解でした。私がM体質だからだと思いますが。何が言いたいかと言いますと、怒られるかもしれないと予感した後に怒られるなんてちっとも面白いものではなく、怒られるなどと微塵も予感していなかった中で怒られた時に初めて絶望しすることが出来、それこそが慈しむべきものだと思うんですよね。
【2011/02/04 02:47】 | よねっしゅ #or84XV5o | [edit]
いえ
僕はワナビではないんですけれど。
ワラビーのほうが好きですけれど
そのふたつともが なんだか知りません。

【2011/02/04 21:48】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
えっと 怒られるのはあたりまえにいやです。
だって 怒られるんですから。
上昇志向もないものですから 怒られても
「自分のためになるんだ」とか 思えません。
ほんとうのことがないなら
僕はなにかのふりをするしかないと思います。
まじめなふり 無気力なふり
怒られると想定して行動するふり
怒られない想定して行動するふり
僕にはすべて同じように見えます。
【2011/02/04 22:02】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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