スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

わたしはあなたを愛して愛して愛してます。

2011.02.04(23:27)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)フラニーとゾーイー (新潮文庫)
(1976/04)
サリンジャー

商品詳細を見る

 1月31日(月)

 あいかわらず記憶がない。お寿司とか食べると記憶が劇的にもどるかもしれないので、だれかわたしの家に持ってきてもいいよ。


 2月1日(火)

 き、記憶…。どとーるで勉強したような気がするけれど、なにも覚えていない。きっとピアノを食べたり猫を踏みつけたりポッキーをふたつおりにしたりしていたんだと思う。知らないあいだになにをしでかしているんだろうと思うと、こころが震える。

 
 2月2日(水)

 9時まで残業をして、そのあとモスバーガーで勉強した。
 わたしの直属の先輩のSYさんは、エジプトに行くと言って長期休暇をとって、その次の日にエジプトへの渡航が禁止された。いまはタイにいるらしい。なぜなのかはちっともわからない。もうちょっとまちがえていたら革命を見ることができたかもしれないのに。


 2月3日(木)

 はやく帰った。どとーるに行ったらCKさんがいたので、勉強が終わっていっしょにごはんを食べた。「さいきんおすすめの映画は?」と訊かれてなんにも思いつかなかったので「キック・アス」と答えた。それ見たよと言われた。やるな…と思った。


 2月4日(金)

 午前中に会社から抜けだして試験を受けて帰った。できばえはたぶんいつもと変わらない。なんでもいいやと思った。
 瀬田なつきがどうしても見たくて、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のチケットを買って、2時間くらいあったので、たりーずで文章を書いたり本を読んだりした。サリンジャー「フラニー」を読んで120回くらい泣いた。


 わたし、好きっていうのに、もう、うんざりなの。

 張り合うのが怖いんじゃないわ。その反対よ。分からない、それが? むしろ張り合いそうなのよ――それが怖いんだわ。それが演劇部をよした理由なの。わたしがすごくみんなから認めてもらいたがるような人間だからって、ほめてもらうことが好きだし、みんなにちよほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。そこが恥ずかしいの。そこがいやなの。完全な無名人になる勇気がないのがわたし、いやんなった



 きらいきらいと言いながら会社に行きつづけて、きらいきらいと言いながら熱心に勉強をして、たとえばそういうことをやりながらきらいきらいと言うわたしは、ほんとうにみにくいと思う。フラニーはきれいなものを求めていると思う。けれども、フラニーは同時にきれいなものを求めることのみにくさを知っていると思う。生きることは生きるための言いわけをすることでしかない。だれかを肯定することの連続でしかないし、それは、ちがうだれかを否定することの連続でしかない。きらいなひとはいっぱいいる。好きなひとはすこしだけいる。どうでもいいひとは無限にいる。「だれかが死んだときどれだけかなしめるかがそのにんげんの価値を測る尺度なのか?」とずっとまえに言ったことがあった。わたしは、たとえば本や映画なんてぜんぜん好きじゃないよと言う。そんなものは暇つぶしにすぎないよと。けれども、けっきょく、それは本や映画を好きと言うことよりほんのすこしましなだけだとわたしが思っているからにすぎない。くだらないなと思う。しんそこ、思う。
 瀬田なつき「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を見た。たとえば、音楽はいつつくられるんだろう。作曲家が譜面を書いたとしたら、その瞬間音楽がつくられたということなんだろうか。だったら、演奏家たちはそのとき音楽家の頭のなかで鳴っていた音楽を模倣しているだけなんだろうか。以前、森山さんがボブ・ディランのライブについて「観客たちは曲あてクイズをやっていただけだった」と言っていた。レコードやCDがなかったとき、わたしたちは音楽を聴くためにはだれかが演奏するのを聴きにいくしかなかったんだと思う。けれど、いまでは自分のレコードやCDの模倣が音楽だとたやすく呼ばれている。CDで聴くこと、ライブで聴くこと、そこにはいくらかのへだたりがあるのに、わたしたちはそれを音楽と呼ぶ。もう、わたしたちはCDを聴いてライブに行くという、もしかしてへんてこかもしれない行為をあたりまえに受容している。「作品をつくる」ということはどういうことなんだろうか。小説家がどれだけ頭のなかで文章をつくってそれを実際に書くかわからないけれど、すくなくとも頭のなかにある状態の「それ」は「作品」とは呼ばれない。「月と六ペンス」で、盲目になった画家は壁いちめんに絵を描き、自分が死んだあとは必ずそれを焼いてくれと言った。その画家にとって、壁に描かれた絵と、彼のなかにあった絵と、どこまで区別をつければいいんだろうか。「本」という形態は形態でしかない。本は作品を規定していない。わたしが読む「地下室の手記」とほかのだれかが読む「地下室の手記」はちがう。ちがわないなら、だれかがそれをおもしろいと言いほかのだれかがつまらないと言うことはないだろう。わたしがそれを読み、だれかがそれをいまだ読んでいないのに、同じ「地下室の手記」という名前で呼ばれる「それは」はいったいなんだろうか。映画もそうだ。なぜカメラで撮ってそれを編集すれば作品と呼ばれるんだろうか。カメラで撮ったものはカメラで撮ったものでしかない。それは実際にあるものなのに。エジプトのカイロの様子をライブで見た。言語が英語ということもあるけれど、見ていてもやっぱりちっともおもしろくない。たぶん、それはそれが編集されていないからだろう。そして、革命もまたたいしたことがないんだろう。「作品」とはただひとびとが実際になんらかの手をくわえることによってそれをある種の形態に押しこめたものにすぎない。だからわたしたちはライブを作品とは呼ばない。それを「演奏」と呼ぶ。瀬田なつきの映画は、わたしにはすべてつくりものに見えた。つくりもののにんげん、つくりもののしゃべりかた、つくりものの光、つくりもののビル、それらはどんなに日本人が日本語で会話を交わしている風景であっても、「キック・アス」や「パンズ・ラビリンス」よりももっと遠い風景だった。目のまえでだれかがしゃべっている、たとえばそれについてなんでもかんでも「現実」だとか「リアル」だとか、そんなふうに呼ぶのなら、わたしは、たぶん、抵抗するだろう。目のまえでだれかがしゃべっていることについて現実と規定するのならば、目のまえでだれかがしゃべっていないことについても現実と呼びたいと、わたしは思う。映画も、小説も、わたしにだけはぜったいになにも語りかけない。わたしになにかを語りかけるのは、わたしだけだ。
 ということはとくに考えないで家に帰った。なにかをしゃべることはすべてみにくい。運命だとか、だれかと気持ちをひとつにしたいとか、そういうことは思わない。最果タヒは「きみがそのひとやそのものを好きだって気持ちは、たかが60億人が認めたって事実程度に負けてしまうものなの?」と言った。あらゆるものにたいした意味はない。わたしは、どうしたらわたしが愛するひとを愛することなくそのひとのとなりにいることができるんだろうかと考えてばかりいる。

わたしはあなたを愛して愛して愛してます。
               ――フラニー/サリンジャー





コメント
「蛇口をひねるとウドンが出て来る」(たぶんデマだ、と田尾さん辺りが言ってた)国民としては映画「レオニー」がおすすめです。レオニーがウドン食うシーンないけど。レオニーは日本で10年以上暮らしたのに「コンニチワ」すら言わないけど。
【2011/02/10 16:49】 | 上田洋一 #- | [edit]
蛇口をひねってでてくるうどんはおいしくないにちがいありません。
蛇口からでてくるものは全部おいしくないのです。
【2011/02/12 00:39】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/908-6a9a173a
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。