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チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」@神奈川芸術劇場

2011.02.08(00:55)

中原中也詩集 (新潮文庫)中原中也詩集 (新潮文庫)
(2000/03)
中原 中也、吉田 ヒロオ 他

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 2月5日(土)

 急遽、藤野さんと横浜と待ちあわせた。俺はいつものように遅れていった。ごめんねと思った。空を飛んだひとの話を聞いた。廃校に住んでいることにされた現代音楽家の話を聞いた。たのしかった。
 チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」を見た。言語と身体が等しい密度であるような舞台がチェルフィッチュの特徴だと思う。前作「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」ではそれが音楽の領域にまでおよんでいたと思う。今回の作品ではチェルフィッチュはそのやりかたをすこしおさめたと思う。いつもより沈黙、それは空白と呼んでもいいような眠たい時間だけれど、その気配が濃かったと思う。チェルフィッチュの舞台において身体はどこにもない。だれがだれの役割を演じているのかは明確ではない、「わたしはいま夢を見ているところです」とその「わたし」を演じている役者ではないひとがそれを語ってしまう。そこには気配だけがある。気配以外にはなにもない。そのなかでとくに際立っていたのが山縣太一の言いようのない悪意だと思う。彼の言葉はそれほどひどいものではない、その笑顔のうさんくささもあてにならない、俺が山縣太一を見て感じることは俺には彼がなにを考えているのかまるでわからないということだ。ゴダールは「俳優は仕事はしていません。たとえば映画のなかで俳優が女の姿を見つめていたら観客は『あいつはあの女とやりたいんだ』と思うわけです。けれど、そのときにもその俳優はなにも考えていないわけです。観客が勝手にそう思っているだけです。観客は金をはらって、なおかつ仕事をしているのです」と言った。すくなくとも、俺たちは金をはらってチェルフィッチュの舞台を見て、あいつはなにを考えているんだろうと想像している。しかしながら、その断絶を埋めるものはこの世界にはひとつもない。あるとすれば、それはただの妄想だろう。ぽっかりあいた空間に粒子のようにひろがりつづける山縣太一の悪意はおそらくどこにも向かないだろう。彼の悪意はおそらく観客を傷つけることすらしない。だから、それはこわい。俺たちはその悪意に傷つくことすら許されないのだから。
 藤野さんとうさんくさい中国料理屋さんでうさんくさいものを食べた。「熱い!」と言っていた。見ると熱がっているようだった。それは熱いだろうと俺は思った。「なにかやることがあるかな?」と訊いたら「アイススケート!」と彼女が答えたので、有楽町まで映画を見にいくことにした。けれど電車のなかでふたり眠っていたら有楽町はすぎていて東京駅だった。山手線でもどった。デヴィッド・フィンチャー「ソーシャルネットワーク」を見た。おもしろかった。アメリカの大学はとてもこわく思えた。
 わかれた。ときどき、だれかとふたりでいると俺は俺がどういうにんげんなのかとてもよくわかってしまうように思う。けれどもそれはいつもいつもその瞬間にすぎさってしまい、それが誤解と、営みと、許しをあたえる。


 2月6日(日)

 六本木まででかけ、森美術館で「小谷元彦展 幽体の知覚」を見た。痛みのない痛みがそこにはあったように思う。髪の毛で編んだドレスも、いちじくをつぶした少女の写真も、世界の終わりへ続いていくはじまりのようなあの部屋も、俺には決して感じられない痛みがあったように思う。痛みを感じられないことはどれほどの痛みをともなうんだろうか。だれかがなにかを言う、俺がその言葉に傷つくとする、なのに、なぜ俺の肉体からは血があふれないのだろう。こころの痛みを感じられたことがもうずっとないような気持ちがする。だれかをつめたくあしらうことにもうずっと慣れてしまったような気持ちがする。
 テアトル新宿で園子温「冷たい熱帯魚」を見た。とてもおもしろかった。今年見た映画のなかでもっともおもしろかったかもしれない。感想はとくにない。


 2月7日(月)

 会社にいった。感想はとくにない。


おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが賛辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ
                 ――吉本隆明/恋唄

死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
                ――中原中也/羊の歌

私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。
                 ――中原中也/無題


 もしも俺が死んだとしても、俺はきみにそれを告げないだろう。
 もしも俺が生きたとしても、俺はきみにそれを告げないだろう。




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【2011/02/11 14:08】 | # | [edit]
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