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もし誰かが汝の右頬を打たば、さらに左頬も差し向けよ、かくてこそ全き人たるを得ん。

2011.02.12(00:35)

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)
(2005/05)
トルストイ

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 2月7日(月)

 月曜日なった。なにがなにやらさっぱりだった。会社を終えて、ドトールで村上春樹、柴田元幸「翻訳夜話」を読んだ。おもしろかった。読むかぎり、村上春樹の発言はかなり頭がわるい。頭がわるいということは、おそらく普遍性を持たないということだと思う。春樹のスタンスはおそらくは参考にならないだろう。リズムさえあればいいと彼は言う。けれど、画家の見ている風景を俺がほんとうには決して見ることができないのと同様、俺は春樹のリズムを感じることができないだろう。ただ、それを普遍性の問題としてのみとらえ、きりすてていくのは愚かしいことだと思う。文章についての技術の問題は無価値だ。ただひとつ、それは実際に書く場所において別名でやってくるもののなかにふくまれている。だから、それを語ることはできない。語りえるとしたら、それは、そのひとが技術を持ってすらいないからだ。


 2月8日(火)

 とくに記憶がない。家に帰ってとても早く眠ったような気持ちがする。ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」を読んだような気持ちがする。じつに頭のおかしい文章だと思う。


 2月9日(水)

 とくに記憶がない。
 ビジネス、効率、というものにたいして意識がわかない。なぜビジネスをしなくてはいけないのか俺にはまるでわからない。橋本治は「会社というものの善意識はおおきくなるというだけのものなのです。おおきくなってどうするかというと、おおきくなるだけのものなのです」と言った。人類がこれからしなくてはいけないものは発展ではなく退化でしかないと思う。地球にかぎりがあるなら、俺たちはすこしずつまわりのものごとの環境をさげていくしかない。昭和時代、洗濯機を買った少女の手記を読んだことがある。彼女は「飛びあがりそうだった」と言った。もう俺たちにはそんな感覚はない。俺たちがすこしずつさがっていかない理由のひとつに、物質的ゆたかさに各国のあいだで差異があるからだと思う。西欧諸国は物質的ゆたかさの発展が遅れた国について「俺たちがゆたかさを先どりしたからもうおまえらのぶんはのこっていないよ」と直接的に言う勇気があるのだろうか。俺がとても好きな女のひとがかつて「もうものを売ったり買ったりすることなんて古いよ」と言っていた。資本主義者たちが市場主義をこの世界において採択しているのは最善ではない。彼らだって、ほかにましな代替手段がないからそれで「しかたなく」やっているということはわかっているはずだ。資本主義は幻想的な価値の差異に発生する剰余を利益として受けている。群馬県の田舎の土地の値段と東京の土地の値段がちがうということを俺たちはあたりまえだと認識しているが、どうしてそこに疑問を発しないのか。土地は土地じゃないか。なぜ俺たちが「そこに価値がある」と思いこむことでそこに価値が生まれるのか。そして、「にんげんの意志に則してそこに価値が生まれるだろう」という幻想を金銭的価値に見積もり、それをシステム化して世界中の基準のひとつとして採択して世界をまわす、そんな複雑な方法がいつまでもうまくいくと思うほうがどうかしている。俺たちは明らかにどうかしている。柄谷行人は「病というものは医師がそれに名前をつけたから病気と認識されているだけだ。医師がそれに名前をつけなければそれは病気ではない」と言っている。それは、かつて病気でなかった状態が現在では病気と呼ばれるということだ。何十年後かの未来においていまを生きている俺たちすべてが病気だと判断される可能性だってあるはずだ。俺たちはつねに現在の病気だけは意識できない。俺たちは俺たちの身体がどうなっているのか知らない。俺たちの世界がどうなっているのかも。
 経済はフィクションにすぎない。そんな状態にありながら、小説や映画をネットを「フィクションだから」と安易に決めているやりかたがわからない。かつて俺は「現実はフィクションが混じった状態で存在していて、フィクションは現実が混じった状態で存在している」と言った。「たったひとつの本ほどに俺に影響をあたえないおまえはそれでも現実のつもりなのかよ」とも言った。「現実とフィクションの区別がついていない」と言いかたがずっときらいだった。9・11テロだって冗談みたいなものだろう。俺は俺がフィクションだってかまわない。俺は…
 …飽きた。


 2月10日(木)

 帰りがけにCKさんから「ばかー」と言われる。そうかそうかと思った。


 2月11日(金)

 1歩も部屋のそとにでなかった。寒かった。
 経済のことがわからなくてこまっていた。たとえばりんごをひとつ買うとする。俺の持っている100円がべつのだれの100円になる。貨幣が移動したということしか起こっていない。でも、たぶんそう考えるのがまちがっているのだと思う。
 リーマンショックが起こったとき、世界から実際にそこに存在していた貨幣(的なもの、金銭的価値に見積もられたもの)が消失したのか。
 消失していないのなら、貨幣的なものは世界にかぎられてしかないということなのか。たとえばアフリカがゆたかになるということは、ほかの国から貨幣的なものがアフリカに流入したということなのだろうか。
 世界に存在する貨幣的な総量というものは不変なのだろうか。
 もうほんとうにそこからわかっていない。貨幣的なものが移動するだけなら不況なんて局所的な現象でしかありえないし、そうでないなら、銀行で紙幣刷っちゃえばいいのではと思う。ほんとうにわからない。
 トルストイ「光あるうち光の中を歩め」を読んだ。キリストのマゾっぷりがすばらしい。




コメント
不必要に銀行で紙刷ったらインフレが起こります。
【2011/02/12 06:09】 | まさとし #- | [edit]
ありがとうございます。

それはわかるのですけれど
インフルが起こるのは 貨幣そのものに価値があるのではなく
ものの交換に使うだけの媒介物だからでしょうか?

僕が知りたかったのは
たとえば株価が下がると
金銭的価値を持つ「なにか」が消滅するのか?
ということでした。
【2011/02/22 22:42】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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