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ハートビート展@ワタリウム美術館

2011.02.28(00:31)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)
(1952/05)
石川 啄木、金田一 京助 他

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 2月26日(土)

 髪の毛をちょっきんちょっきん切って、それから渋谷にいって、カフェ・アヴァンで文章を書いた。5回くらいいっているけれど、はじめて店員さんがブレンドおかわり自由だっていうことを教えてくれた。えー…と思った。
 管城さんと交番のまえで待ちあわせた。彼女は花粉症だけれど花粉症じゃないよと言っていた。「この世界の杉をすべて切りたおすか、春にみんなおやすみすればいいんです!」とか言っていた。彼女の言うことはいつも圧倒的にただしいけれど、その圧倒的ただしさゆえにどれも実現しないだろうと思った。わたしはだいたい彼女の話を聞いていなくて、彼女もたぶんだいたいわたしの話を聞いていなくて、よく会話がつづくなあと感心した。ワタリウム美術館にいった。おそろしいほどのナルシシズムに満ちた美術館だった。内容じたいはトイレがいちばんよかったと思う。ショップはすてきで、青木陵子のかわいい2011年のダイアリーを買った。管城さんが「わたしがリボンを描いてあげます!」とか言っていたので「いたずら!」と思った。かわいい洋服がいっぱいあった。値段がじゅうぶんのいちなら欲しかったのに。
 近くの豆腐のお店にはいって豆腐をもしゃもしゃ食べた。チーズのはいったお豆腐のメンチカツを食べた。どれもがいっぱいだった。おなかがいっぱいだった。おいしかった。ふたりで松屋をたたえあった。「豚丼にフレンチドレッシングをかけて食べるとおいしいですよ!」とすすめられた。むむむと思った。渋谷でわかれた。
 どうも、さいきんよく思うことだけれど、ひとに話したいと思うことをうまく話せない気がする。それは、いつものことだけれど、いつもいつものことだけれど、強い意志を持とうと思った。ほんのひとにぎりでもいいから。
 

 2月27日(日)

 シアターN渋谷までとっとこ電車に乗って、ラース・フォン・トリアー「アンチクライスト」を見た。ひとことでいえばシャルロット・ゲンズブールが下半身まるだしで森のなかを走りまわっている映画だけれど、びっくりしたのは、いかにシャルロット・ゲンズブールが下半身まるだしでもぜんぜんちっともえろくないということで、それは、すなおに映像のうつくしさで見ればおそらく最高峰だろうと感じたこの映画のなかで繊細さではなくなまなましさがきわだっているからだと思う。純粋な物語の威力でいえば「ドッグヴィル」にはおよばない、にんげんのリアルさでいえば「イディオッツ」にはおよばない、では、この映画になにがあるのかと訊かれたらわたしにはうまく答えることができない。「ドッグヴィル」にあるのは抽象化された性だったけれども、ここにはたしかに直接的な性があって、たとえばプロローグの圧倒的なモノクロの映像美のなかですら彼らは陰部をまるだしにしていて、それはなんだろうと思う。トリアーのこの映像はわたしにはゲーム的に思えた。「ファイナル・ファンタジー」は90年代後半から2000年代において明らかにひとつの映像をつくりつつあったようにはわたしは思っていて、トリアーが描いたこの映像は、たとえばそういう類にはなれないかもしれないけれど、この映画がタルコフスキーに捧げられているとおり、たんじゅんに年代を経た映像美としてのひとつの結果だったんだと思う。タルコフスキー「ノスタルジア」のラストシーンを見てわたしは生まれてはじめて映像のうつくしさというものを認識できたように思う。同じように、トリアー「アンチクライスト」のラストシーンを見たかったし、もしかしたら、見ることができたのかもしれない。傑作だと思う。
 しかし、この映画、「わたしがもっとも直視できなかったでしょう」を捧げたい。後半、だめだ…と思ってずっとジャケットを顔面にかぶせていたからちょっとよくわからなかった。鹿がとっとことっとこ走っていて「わーかわいい!」とか思っていたら肛門から子鹿がにょろりとはみでていてびっくり、とかですらジャブだからね! 気をつけてね!
(ねっとで遊んでいたら、「オリジナルにはないぼかしがはいっているのならもうべつもの! 見る価値なし!」とまで言っているひとがいてびっくりした。わたしも、有楽町と新宿ではブルーレイ上映なので「それはちょっとないのかな」と思って渋谷(DPEというものらしい)で見た。日本版ではたしかにぼかしがはいっているとアナウンスもされていた。でも、ぼかしがはいっているからだめだとか、ブルーレイだからだめだとか、それってほんとうにそんなに大事なことなのかな。作品を聖的な場所に持ちあげてどうするんだろう。作品を聖的な場所に持ちあげること、ふれえぬ場所に置くことは、どうあっても、その光を自分に照射したいということでしかないんじゃないかと、たまに思う。俺はこんなに映像の質についてわかっているぜ、という。だからわたしはそういう話はもう聞きたくない、したくない。しないようにしようと思う。わたしはブルーレイで見てもたぶんそのひとたちが言う画質のわるさにすら気づかないと思う。比較すればわかると思うけれど、比較なんてしない。そんなにめんどうくさいことはしない。どこまでその作品を求めるんだろう。そのひとは映画のなかにあんなにでかでかとはいる字幕をゆるせているのかな。映画を見ることで自分のなかに神話をつくりつづけることってそんなに大事なのかな。えご。わたしもえごのかたまりで、わたしは、「アンチクライスト」よりも「アンチクライスト」について語るわたしの言葉のほうが好きだ。好きだな。だから作品なんてどうだっていいよ。どうだっていい。そう思いたいな。)
 高田馬場まで移動して、黒沢清「カリスマ」、「CURE」を見た。こんなにおもしろかったっけと思った。「カリスマ」の衝撃的な終わりかたもすばらしいけれど、「CURE」において、ひとびとは「ひとつの仕草」として他人を殺していく。ひとつの殺されかたは殺したひとの思考としてはあらわれず、仕草としてあらわれていく。それがいいと思う。「回路」で、たしか遠景からワンカットでひとが飛びおり自殺をするシーンがあったと思う。かつて、あのように映画のなかでひとが死にえたんだろうか。ひとつの死にかたを生んだだけで、もうそのひとは偉大だ。
 石川啄木「一握の砂・悲しき玩具」を読んで、ほんとうにすごいと思った。「いっかいでも俺に頭をさげさせたやつはみんな死ね!」、「曇り空を見ていたらひとを殺したくなっちゃったよ!」、「さびしくなればなんにもなくてもであるいて、でもなんか用事があるひとのふりしてばっかりだよ!」とか、そんなことしか書いていない。日本文学史上さいこうの歌人のこのくだらなさ!


『石川はふびんな奴だ。』
ときにかう自分で言ひて、
かなしみてみる。



 もしかして、日本で、石川啄木以前にこんなことを書けるひとはいなかったんじゃないだろうかと思う。「こんなこと」とは現代においてわたしが日常的に書きたいと思うこと、そして、「ニートやフリーターで通り魔を起こしそうなひとはこんなことばかり考えているんだろうな」とたいていのひとがじつは思っているかもしれないそのことだ。ドストエフスキーや啄木がいてくれたからわたしは安心して「社会とかほんとうにごみ」とか「わたしはだめにんげんだよ!」とか平然と言うことができる。そのことを彼らに感謝しなくちゃいけないのかもしれない。文学者にぜったい感謝なんかしないけれど。




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