スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

塔のうえにあった絵画としての青空

2011.03.07(02:09)

serial experiments lain TV-BOX [DVD]serial experiments lain TV-BOX [DVD]
(2005/09/22)
清水香里、大林隆之介 他

商品詳細を見る

 3月2日(水)

 会社にいって、5時30分くらいには帰った。どとーるで文章を書いて、石川啄木を読んだり、村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話」を読んでいたらCKさんがやってきて、お話をして、いっしょにごはんを食べた。ぜったいに謝らないけれど、きげんがわるくてごめんねと思った。
 他人が、にんげんなのかわたしの暇つぶしの道具なのかよくわからなくなってくる。そのひとが映画とちがって、にんげんである必然性があるのかよくわからない。ほかのひとがだれかを好きだと言うとき、いったいどんなふうに好きなのかを知りたい。わたしはわたしの好きなひとたちを好きだと思う。わたしはわたしなりに、ほんとうに好きだと思う。けれども、その好きなひとたちを好きな理由がわたしの暇をつぶしてくれるからとか、わたしに嫌悪を抱いていないからとか、そんな程度の理由ではないとちゃんと言えるんだろうか。いやだなと思う。すごくすごく、いやだなと思う。悪意だけではなく、好意にも耐えていかなければいけないそのありかたを、わたしは、とてもとてもいやだなと思う。
 以前、わたしがほかのひとにわたしの書いた小説を読んでもらったとき、「なぜこれを書いたんですか?」と訊かれ、「暇だから」と答えた。「じゃあ私たちはあなたの暇つぶしにつきあわされているんですか?」と言われた。「そうなりますね」とわたしは答えた。なんなんだろうなと思う。そのひとが魂をこめたものとか、一生懸命つくったものとか、つくれらたものや言動がそうでなければそれはろくなものではないと判断されなければいけないのかな。ほんとうになんなのかな。正気なのかなって思う。こわくってしかたなくないのかな。「一生懸命書きました」なんて、わたしはぜったいに言わない。どんなものだってたいていはごみみたいなものなんだから。一生懸命書いてその程度かよって思われることに、どう耐えていけるのかな。一生懸命じゃなきゃ、だれかと向きあっちゃいけないのかな。だれかのことをほんとうに好きじゃなければ、だれかを好きになっちゃいけないのかな。


 3月3日(木)

 記憶がない。会社にいって、7時くらいには帰って、それからどとーるで文章を書いた。
 わたしとワタリウム美術館に行ったときの管城さんの日記を読んで、なんだか、とてもきゅっとなった。
 

 彼は日記でわたしが彼の話をまるで聞いていなかったなんてディスっていたけれど、そんなことない。桜井さんがわたしの話を聞いていないだけで、わたしは桜井さんの話を聞いている。常に桜井さんの話と関係ないことを喋っていたり、聞いた瞬間に忘れ去ったり、しているだけだよ。むつかしいね。
 たぶん必要な会話なんてないんだろう。言いたいこともないのかもしれない。わたしはどんどんばかになっていって、大切なことなんてなにひとつとしてわからなくなってしまう。誰といたって、なにを話せばいいのかわからないし、伝えたいこともない。



 俺たちはいったいなにを話しているんだろうねとときどき思う。もうずっとまえ、ひとに「どうしてあなたと彼女は同じようなことを書いているんですか」と訊かれて「僕が彼女の書いていることをぱくって、彼女が僕の書いていることをぱくっているからですよ」としたり顔で答えたことがあった。いまは、もうそんなことはないなと思う。そうありつづけているのかもしれないけれど、すくなくとも、さいきんの彼女の文章を読んでいるとそのありかたはぜんぜん変わってきているように思う。彼女はわたしをすくなからず故意に否定しているように見えるし、故意に必要以上に落ちていっているように見えるし、けれども、彼女の文章にはわたしと彼女の無関係性や否定性をつつみこむようなやさしさ(というわけではないのかもしれないけれど、それにはそう名前をつけるしかないのでかりにそうしておく)があるようにも思えた。切りはなされていくことのここちよさ、切りはなされていくことへの安心、みたいなものがあるように見えた。かっこいいなと思った。


 3月4日(金)

 会社での1年間をふりかえる研修だった。研修じたいはどうでもいいものだった。べつの遠い場所で働くことになって1度も会ったことのない同期のひとびとと合同でやった。わたしがひとり喫煙室で煙草を吸っていると、そのひとたちがどやどややってきて、わたしのとなりでわたしに気づかないまま(わたしと同じところで働いている同期の)女子品評会をやっていてとても不愉快だった。頭おかしいんじゃないかと思った。
 それで、吉田群青さんがちょうどこんなことを言っていて「にゃあ!」と思った。


ずっと彼女がいなかった職場のひとが「ぼく彼女できたんす!」って報告してきたので、その場にいた全員で「おめでとう!」ってそのひとが帰るまで祝福したんだけど、そのひとが帰った瞬間、「絶対すぐ別れそう」「あいつと付き合うとか(笑)どうせ水商売系でしょ?」とか言い始める女子の集団こわい

陰口は言いたくないから(正義感じゃなくて、自己保身です。ひとの陰口を言うってことは、あとで自分の陰口も言ってもいいですよっていう表明になると思うのです)、周りが陰口を言う中ひとり黙ってて、同意を求められても「どうなんでしょうね」って笑うだけのわたしが一番ひきょうなんだろうと思う



 ほんとうにわたしがなにかを言いたいのはいつもこういう現実なのに、わたしは頭がたいそうわるいから、ドストエフスキーとか、太宰とか、そういうどうでもいいことばっかりしゃべっている。ドストエフスキーなんかほんとうはどうだっていいのに。
 ひとが、たとえばわたしにだれかの悪口を言ってくるってどういうことなんだろう。そのひとがわたしを信用して近しいひととしてそれをしゃべっているということもあるのかもしれない、でも、わたしは、このひとが目のまえでだれかの悪口をしゃべっているのと同様このひとはいつか俺ではないだれかに俺の悪口をしゃべるんだろうという疑惑を消せないと思う。だれかになにかを言われるくらいなら、わたしは最初からだれかになにかを言わないほうを選びたい。ひとの陰口を言うことがあとで自分の陰口を言ってもいいですよという表明になるとはわたしは思わない。けれども、どういう表明をしても、しなくても、なにかを言われたらただ傷つくしかないと思う。もしも、わたしが吉田群青さんと同じ場所にいたら群青さんと同じことを言うと思う。あいまいな立場をとって、逃げつづけると思う。いやだなと思う。
 女子品評会をやっていたあいつらを醜いと思う。わたしは、理論的にはそれをやらなかったわたしよりもあいつらのほうが醜いと思う。けれど、どうして群青さんはたとえばそういうとき「わたしが一番ひきょうなんだろう」と思うと言って、わたしはそれに共感を覚えるんだろう。どうしてわたしはあいつらよりもわたしをしたに見なくてはいけないんだろう。いやだな。すごくいやだ。書くことがあらゆるわたしにつながってしまう。こうやって書くことはけっきょく「俺はこんなことが書けるんだからまっとうなにんげんなんだよ」と表明することでしかないと思うし、事実、わたしはそう思いながらせっせと書いている。欺瞞に欺瞞を重ねているだけ、欺瞞を重ねた塔をのぼり、欺瞞ではない場所にたどりつけるならばそれでいいかもしれないけれど、わたしはそういう塔は信じていない。バベルの塔を築いたひとびとは空が空ではなく空の絵が描いてあったと思っていたとどこかで読んだ(この話はうそかもしれない。でもほんとうだと思っていたほうがきれいなのでわたしはほんとうだと思う)。空があると思って塔を築くわたしよりも彼らははるかに美しかったと思う。
 ドストエフスキーは「白痴」において無条件で美しいにんげんを描こうとしたという。たとえば、その場所でわたしが女子品評会をやっていたあいつらに「おい、おまえらなんなんだよ」とひとことでも言えていたら、わたしはすこしはまともなにんげんになることができていたのかな。でも、わたしはほんとうのところでその美しさを信じていないし、わたしはもうずっとそういうことを言えないままだし、言わないままだろう。
 何日かまえ、知らないひとからブログに「あなたの日記は単なることば遊びの文学ごっこ。もっともらしいことを書き連ねてるけれど中身はからっぽ。あなたという人間もきっとからっぽ。なんだかとっても哀れですねえ」とコメントがあった。「ばかだな」と思った。表面を見ることのほうが中身を見るよりもよっぽどむずかしいんだよ。俺はもしも表面だけまともになればそれでじゅうぶんだよ。中身なんてくずでも、それを隠して生きればそれでいいんだよと。「中身がない」なんて物言いはなににたいしても言える(村上春樹にも綿矢りさにも、ジョイスやベケットにだって言えるだろう)ことだから、それは、そのひとがなにかをしゃべっていると思っているだけで、わたしにとってはそのひとはなにもしゃべっていない。そのひとはにんげんみたいにしゃべっているけれどただのテレビにすぎないとわたしは思う。こういうことがいやなのは、なんにもしゃべってはいないくせにただ悪意だけがそこにあるということだと思う。悪意があれば、傷つく。あるいは醜さのようなもの、「俺はおまえが表面だけとりつくろっているからっぽのにんげんだっていうことに気づくほどのちからを持っているんだぜ」という、そういう気配がわたしには見えた。そういう、ほとばしりみたいなものもきらいだ。ほんとうにいやんなる。
 でもそれが悪意で、しかもたまたまそう書いたひとの批判のやりかたが下等だったから、わたしはそのひとを見下すことでわたしを回復させることができる。すくなくとも、わたしは世界でいちばん頭がわるいにんげんじゃない、どんなに最低でもいまこれを書いたやつよりはまともだろう、そう思うことでわたしはわたしを回復させることができる。けれど、あきらかにそういうことでしかわたしを回復させることができないわたしは醜いだろうと思う。そう書いたやつは俺の自慰のための道具にすぎないじゃないか。他人を自慰のための道具にすることは、ほんとうに、いったいどういうことなんだろう。どうすればいいんだろう。女子品評会をやったあいつらに「おい」とひとことなにかを言えるわたしなら、べつの回復のやりかたがありえるのかな。だいぶ、だいぶずっとわからなかった。わたしは、いったいどこからまちがえているのかな。回復する手段なのかな、傷つくことじたいがまちがっているのかな。だれかがもしもわたしに「あなたはまっとうなにんげんだよ」と言ったとしても、わたしはそれを信じないと思う。それがどんなにわたしの好きなひとであっても、わたしはそれを信じないと思う。
 わたしは、たとえばわたしは、他人に悪意にどこまで耐えていけるのかな。それと同じように、わたしは、他人の好意にどこまで耐えていけるのかな。ずっとずっと、わからないままだ。
 吉祥寺が遠いしめんどうくさくなったので、会社が終わるとさっさと実家に帰った。ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」を読んで、お菓子を食べてばかりいた。
 夜中、もそもそと起きて「serial experiments lain」をとてもひさしぶりに見た。「エヴァ」をリアルタイムで見なかったことはおおきな悔いだけれど、このアニメをリアルタイムで見てきたことはほんとうによかったと思う。「lain」を見ていなかったらわたしは情報工学なんて勉強していなかったかもしれない、システム会社に就職していなかったかもしれない。


 3月5日(土)

 「lain」を見終わって、いやな気持ちになって、自分の部屋で窓を開けて煙草を吸いながら薄く暗くなっていく空を見ながら、「つまらないじんせいだな」と思った。けれども、たのしく生きているように見えているひとたちもそのひとにとったら「つまらないじんせいだな」と感じている可能性はいつだってあるから、わたしはわたしについて「つまらないじんせいだな」と感じることにうまく癒されることができなくて、こんわくしてしまう。玲音はありすのことを思い、ありすのためになにかをしてあげる。「わたしのすることはなんでもありすを傷つけてしまうね」と言う。彼女はこの世界に生きているすべてのひとから彼女の記憶を消し、もうだれにも記憶されない存在しない存在として、「わたしはみんなが好きだった」と言って泣く。「lain」を見ることは lainをわたしのなかにインストールすることだと思ってきたけれど、それは、現実とか、ネットワークとか、そういうものを持ってくる必要のないものかもしれないと思う。わたしが映画を見るときにわたしはわたしのなかにその映画をインストールしているし、わたしが本を読むときわたしはわたしのなかにその本をインストールしている。「わたし」とはたんなるデバイスだと考えたほうが気持ちいいと思う。わたしのそとになにか美しいものがあって、それがわたしを通して、わたしのなかのなにか美しいものへ蓄積されていく。わたしは、わたしのなかの墓場へ灰を降りかける装置ならばいいと思う。わたしのなかの墓場はわたしとは関係ない。わたしがもしもだれかを好きになれるのなら、そのだれかが、わたしを装置として、わたしのなかに降りつもればいい。
 なんだっていい。数十年後、安楽死の装置ができていればいいな。死にたくない。死ぬよりも、いなくなったり、塩をかけられたなめくじのように溶けちゃうほうが、すてきだな。いなくなりたくなったとき、人類補完計画が起これば、lainが発動してひとびとすべてがつながれば、それは、とてもすてきな溶けあいかただと思うな。なんでひとびとはlainを開発したり、人類補完計画を進めようとしないんだろう。ネルフ!
 うちの姉が母親にたぶんここ1年くらいまったく口をきいていなくて、わたしが帰ると、わたしがときおりあいだにたって彼女たちの意志を通じあわせることがあるけれど、しかし、ひとことも口をきかないというのはすごい事態だなあとよく思う。ひとつ屋根のしただし、意識的に無視するというのはとてもむずかしいことだと思うけれど。母親に「しゃべるように言ってよ」と頼まれるけれど、わたしはあいまいに笑ってやりすごすだけだ。母親は傷ついているんだろうなと思う。とても。家族を見ていると、仕事をしなくなったあとにどうやって生きていくんだろうと思う。そういうことを、わたしはほんとうには考えない。考えないで、逃げつづけるだけだ。母親は好きだな。どうしてこうなってしまうのか、わたしにはいつもよくわからないけれど。
 夜中、カイサ・ラスティモ「ヘイフラワーとキルトシュー」を見た。かわいい女の子ふたりがかわいい風景のなかできゃぴきゃぴしているだけの映画だった。ロリコンにぴったりの映画だなと思った。キルトシューのわがままっぷりに見ているときついことがあるけれど、でもわたしがキルトシューを育てているわけではないし、まあいいかと思った。

 
 3月6日(日)

 部屋から1歩もそとにでないで、ずっと「めぞん一刻」を読んで泣いていた。だいすき。15巻の響子さんのかわいさは常軌を逸していると思う。かわいい。かわいい。
 夜にアパートまでもどった。




コメント
陰口は後で自分も言われても良い事の表明であると書いた直後、表明にはならないと書いたのはなぜですか?
【2011/03/07 06:31】 | まさとし #- | [edit]
やわらかくてかっこいい
【2011/03/07 17:12】 | 三角 #Us1EVnfo | [edit]
まさとしさん

「ひとの陰口を言うってことは、あとで自分の陰口も言ってもいいですよっていう表明になると思うのです」
というのは 吉田群青さんの引用なので。
【2011/03/08 22:08】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
三角さん

やや それは
「彼女の書いた文章」

「戦闘機のかたちをした杏仁豆腐」
への言及ですね!
ご 五分五分です ね!
【2011/03/08 22:10】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
3年くらい前から拝見してます、はじめてコメントします。

感動しました。

「おいっ」て言うことは、徹底的に「表面のこと」で、中身の問題ではない。それなのに、それを中身の問題で片付けようとする人がたくさんいる(悲しいことに私もそうです!)。でも私たちがいつもいつも、本当にぶつかるのは、やばいかもしれないと思うものは、「表面の問題」ばかりです。そのとき「中身」に出る幕はあるのか。考えていきたいと思います。

桜井さんが意図したかどうかは別にして、桜井さんの今回の文章を読んで私が感じたのは、そういうことでした。サンクス。
【2011/03/09 00:49】 | しんちゃん #- | [edit]
しんちゃんさん

けっきょくのところ けれど「おいっ」って言ったほうがいいと思うんです。
日がたっちゃってあれなんですけれど
地震で たとえば募金をするのは「表面のこと」なんでしょうか。
「おいっ」と言うことと募金することは似ていると思います。
同じたぐいの 勇気だと思います。
僕は(ネットで)150円くらい募金したんですけど
それでもそれをしたのは募金する相手がいないからだと思うんです。
僕ができるのは孤独な行為だけです。
街頭で募金箱を持ったひとがいたら
あるいは被災者が手をさしのべていたら
募金はしなかったでしょう。
してないです。
なんというか たとえば不幸なホームレスにお金をめぐむことと
被災者に募金することはなにがちがうんだろうかと思います。
被災者にたくさんのひとが募金するのは
被災者が見えていないからなんじゃないかと思います。
もっと恥ずかしがっていいはずだと思います。
よくわかりませんが。
そして中身とは きっと
恥ずかしがることと関係あるように思えます。
よく わかりませんが。
【2011/03/30 23:18】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/918-8d5f13bb
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。