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放射能が降っています。静かな静かな夜です

2011.03.23(23:40)

Desire (Reis)Desire (Reis)
(2004/06/01)
Bob Dylan

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 3月21日(月)

 雨が降っていた。


放射能が降っています。静かな夜です。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。



 被災した詩人、和合亮一は「故郷は私の全てです」と言い、3月16日からついったーをはじめた。


私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。

私の大好きな高校の体育館が、身元不明者の死体安置所になっています。隣の高校も。

スーパーに3時間並んだ。入れてもらって、みんなと奪い合うようにして品物を穫った。おばあちゃんが、勢いにのれずにしゃがみこんだ。糖尿病でめまいがしたと言った。のりまきと、白米と、ヨーグルトを取ってあげた。

おばあちゃんに尋ねた。「ご家族の方をお呼びしますか」。おばあちゃんは「一人暮らしなんだ」と教えてくれた。家まで送りましょうか。「家は近いんだ」

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕のほうが先だったね、起きたの」。その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かな。

シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ。ノンデナイ。ノメルミコミハ、ナイ。

昨日。ガソリンスタンドに車の一列。長い長蛇が3時間ほど続くが、一度も動かず。一番前から伝達。「スタンドは開かない」。開くという事実すらかった。有ったのは、車の一列。何が、私たちを並ばせようとするのか、しーっ、余震だ。

茶の間の時計と本棚の小さな時計が2時46分を指したまま、激しく転がっていた。その後に駅に行ったが、巨大な時計がやはり2時46分を指したまま、止まっていた。明日は2時46分に目をつむろう。

祈る前に願われているのが分かった



 これらの言葉は、どこの国の、だれの言葉だろう。わたしに読まれるのだからこの言葉はいまでも発信され、その瞬間、時間差に耐えきれずにいのこっていく。ついったーのうえに言葉がのこるのは、言葉が発される瞬間と言葉が届くその瞬間の差異にわたしたちが耐えることができないからでしかない。K課長は「早く日本を復興しなければいけない」と毎朝しゃべっている。復興とは戦後におこなわれることだと思っていた。けれど、わたしたちは戦争をおこなわなかった。解散すべき軍隊すら持たない。高橋源一郎は本谷有希子をはじめとした一連の作家について「戦後の光景に似ている」と言った。思いだせよ。わたしたちは戦争からたかだか60年しか時間を進めることしかできていない。わたしたちはたかだか国家のなかにいる。たかだか国家だ。それは、遺体の処理にこまるほど国家のなかにいるということだよ。くだらない。
 部屋を掃除して、コーヒーを飲みながら本を読み、文章を書いた。本となら和解できる。文章とも。国家は関係ない。雨が降っていた。雨が降りつづいていた。


 3月22日(火)

 会社にいった。帰りに米を買った。重さで手が傷んだ。


 3月23日(水)

 会社にいった。帰りにどとーるによって、マルカム・ラウリー「火山の下」を読みおえた。びっしりと500ページを文字で埋めておきながら1日しか経過しないこの本は、つまりジョイス「ユリシーズ」だけれど、わたしにはよくわからなかった。「ユリシーズ」や「火山の下」に「それを読んだ」という以上の価値を見つけることができない。そもそもなにが起こっているのかまるでわからない。「ユリシーズ」では男が自慰をするシーンがあった(らしい)。けれど、わたしは読んでいても男が自慰をしていることにすら気づくことができなかった。自慰をすることにすら気づかない本とはいったいどういうものなんだろう。
 さいきん、「言葉がなければ可能性はない」をまた聴いている。ともちゃん9さいの「ちがあかビーバップ」は、おそらくこの世界でもっとも泣ける音楽だと思う。この世界でもっとも美しい音楽だと思う。スポークン・ワーズ、朗読、わたしはそれらをほとんど信じてはいない。ビーバップ・みのる(AV監督)が大沢佑香に精液(だと思っていたけれどおしっこらしい)がついたカツサンドを食べさせようとしている会話がこれほどまでに美しいのは、けれど、たとえばボブ・ディラン「サラ」で「Sara, Sara, Sweet virgin angel, sweet love of my life」という恥ずかしい呼びかけが美しいことと同じことだろう。Mr.Childrenになれなかったひとたちがわたしの街の駅で愛を歌っている。どうしてそれほど大事な気持ちがあるならそれをだれかに言わず、歌ってしまうんだろうか。おまえの気持ちはおまえを歌わせる程度のものでしかないのか。どうして口にだして恥ずかしい言葉を歌ならば伝えることができると思うんだろう。おまえの言葉は歌以下でしかないのか。ばかみたい。わたしは恥ずかしいから文章を書くだけだ。恥ずかしいから詩を書くだけだ。恥ずかしいから生きているだけだ。




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