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「生誕100年 岡本太郎展」@国立近代美術館

2011.04.02(23:28)

さよなら、ニッポンさよなら、ニッポン
(2011/02/19)
高橋 源一郎

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 3月31日(木)

 会社を休んで、おでかけをして、近代美術館に「生誕100年 岡本太郎展」を見にいった。岡本太郎の絵なんてひとつも見たことがなくても「芸術は爆発だ!」というフレーズは知っているものだから、つまり岡本太郎は日本でもっとも有名な芸術家なのかもしれない、けれど、そういうこととは関係なしに「傷ましき腕」はいたましい。そして、「駄々っ子」に描かれた猫(?)のかわいらしさ、「森の掟」に描かれた3匹の猿のかわいらしさはどうしたことだろう。まったく。
 どとーるでベケット「名づけえぬもの」を読んで、文章を書いて、それから、新文芸坐で黒澤明「七人の侍」を見た。ものすごくおもしろかったのでびっくりした。俳優がなにをしゃべっているのかちっともわからなくても、降りしきる雨と跳ねちる泥はそれだけで美しいし、三船敏郎はいくらなんでもかっこういい。なんで血がでないんだろうと思った。こんなにひとが死んでいるのに、どうして血が流れないだろうと思った。だからそれは痛みではないのかもしれない。けれど、ブニュエル、ダリ「アンダルシアの犬」で眼球を剃刀で切られたあの女のひとは痛かったんだろうか。わたしにはよくわからない。モノクロ映画にはすでに痛みはないんじゃないだろうかと思った。


 4月1日(金)

 会社にいった。ちょうど入社してから1年がたった。
 どとーるにいたらCKさんがきた。お話をした。それから帰った。


 4月2日(土)

 でかけるのがめんどうくさくなったので、掃除をして、くりーにんぐ屋さんにいって、買いものにいって、それから、ぶっくおふにいって「ダイの大冒険」を4時間くらいひたすら立ち読みして「やっぱポップで宇宙でいちばんかっこういいよな」と思った。ジョージ・オーウェル「一九八四年」、横光利一「機械・春は馬車に乗って」、ドストエフスキー「貧しき人びと」、天沢退二郎「光車よ、まわれ」、青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」を100円で買った。
 高橋源一郎「さよなら、ニッポン」という本は、とんでもないことが書かれている。でも、たとえば朝吹真理子の本はさいたま市図書館で数百人のひとが予約しているというのに、この本を予約したひとはわたしひとりだった。


 この文章を読んでいると、通常、ぼくたちが読んでいる文章の大半が、「見る」ことも「聴く」こともしないで書かれていることがわかる。目の前の文章を、自分が書いている文章を、その書いている当人が、きちんと読んではいないのである。
 そんな馬鹿な?
 いや、それはよくあることなのだ。
 では、なぜ、そんなことが起こるのか。
 それは、たいていの場合、ぼくたちが読んでいる「文章」というものの大半が「できあがっている」ものだからだ。
 みんな、既製品を組み合わせて、書いているのだ。でかいのパーツを寄せ集めて、書いているのだ。なにかを書くとは、「文章」という既製品を、なんらかの方法で、組み合わせることだ、と思いこんでいるからだ。そして、そのことに、みんな、気づいていないのである。


 これがとんでもないことじゃなくてなんだろう。みんなが文章を、たとえばみくしやぶろぐで日記を書いている。みんなそこで自分の気持ちを書いている。けれど、それはほんとうは「できあがっている」ものだったらどうだろう。既製品を組み合わせたものでしかなかったらどうだろう。わたしはわたしの気持ちを書いているつもりなのに、それが既製品にすぎなかっただなんて。わたしが書いているわたしの気持ちが他人のできあいの気持ちだったなんて。
 いったい、どこまで自分の文章を信じれるというんだろう。わたしが書いた文章に表現されたわたしの気持ちについて「わたしはこう思っているんだな」とたとえ無意識的にでもわたしが確認しているとすれば、わたしはわたしの文章につねに裏切られている。そして、高橋源一郎の書いたことのおそろしさはそんなところにとどまっていない。文章に裏切られるならばまだいい。文章に裏切られるならば文章なんて書きやめてしまえばいいからだ。でも、ここでわたしがこだわる「わたしが書いた気持ちは他人の気持ちかもしれない」という問題は、はたして、文章の問題なんだろうか。もしもそれが気持ちのほうの問題だとしたらどうなるんだろう。そもそものはじめから、わたしがわたしの気持ちなんか持っていなくて他人の気持ちしか持っていないとしたら、わたしは、そして文章を書くにんげんは、いったいどういう生きものなんだろうね。

 思うに、や、これはあたりまえのことなんだけれど、作品、というものがあるんだかないんだか俺にはちょっとわからないんだけど、さ、あるとして、それを読んだいたり、見ていたり、するあいだ、ここですごいことが起こっている、わー、という感覚がないと、読みつづけたり、見つづけたりすることは、ちょっと、つらい、気持ちがするかもしれない、というのもまた欺瞞かもしれないけれど、柴崎友香が書いていたなんかの短篇で、どこかの公園、かどうかはわからないけれど公園的な場所で、ライブをやっていて、女のひとがそれを見ていて、まわりには高層ビルな会社がいっぱいあって、その窓には仕事をしているひとがたくさんいて、ライブとかべつに見ないでもくもくと仕事していて、それで、その女のひとは、なんでここでこんなすごいことが起こっているのにみんな見いこんの、って思っている、や、それだけの、短篇なんだけれど、それが忘れられなくて、俺がかりにそういうことを思うとしたらそもそも俺が醜いからやっぱりみにくーいってなると思うんだけど、柴崎友香が書いていたらそれはやっぱりかわいーってことになって、そういうものが、そういうものこそが、いちばん、たいせつかなって、ときどき、思って、いて、ずっとまえ、勅使川原三郎「鏡と音楽」を見たとき、俺は「わたしはすごいものを見ていると思った。生きてきたなかで、もっとも美しいものを見ていると思った。わたしはダンスなんてぜんぜん見ないけれど、もしこれ以上きれいなものがあるとしたら、それはとてもたいへんなことになるのかもしれないと思った。この劇場にいない、ほかのひとたちはいったい何をしているんだろうと思った。ストローをくりくりまわしたり、パンをちぎって道にまいたり、手をつないだりしていたのかもしれない。でも、ストローはいつでもまわせるし、パンはちぎらなくても食べられるし、手は、劇場でもつなぐことができる。その劇場でとんでもないことが起こっているのに、ほかのひとは何をのんびりしているんだろうと思った。たぶんわたしが劇場に入ったあと、核が降ってきて世界は滅びちゃったんだろう。わたしが見ていた1時間30分のあいだに、世界はとどこおりなく再生されちゃったんだろう。そういう気がした。それはとても正しい気がした。そういう舞台だった。だいすきだった。」って日記に書いたから、俺は、その舞台を、とても好きだったんだろうなって、思って、けれど、その、たぶん、たぶんだけど、「俺の」というところがいちばん大事なんじゃないかとも思って、いまこんなすごいことが起こっている、ということに気づいている状況、状況というか、体験、みたいなものが俺だけに降りそそいでいるとき、たぶん、核が降ってきて世界が滅びちゃっているということなんだろうって、俺は、思うよ。




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