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ジエン社「スーサイドエルフ/インフレ世界」@日暮里d-倉庫

2011.04.04(23:49)

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(2000/11/15)
Chara、橋爪こういち 他

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 4月3日(日)

 日暮里までいって、日暮里d-倉庫でジエン社「スーサイドエルフ/インフレ世界」を見た。たとえばこの演劇では会話が3ヶ所で同時に起こり、すくなくともわたしは、彼らがなにをしゃべっているのかわからなかった。わからないことが問題ではないと思う。岩井俊二「PiCNiC」は、精神病院を抜けだした3人が塀のうえを伝ってずっと歩いて世界の終わりを見にいくというだけの物語だけれど、Charaと浅野忠信が雨にうたれる場面がある。Chara は「世界で最後のキスよ」と言って浅野忠信にキスをする。ふたりはなにかを話していた。わたしは、ふたりがとても重要な会話を交わしているような気持ちがしたからそれを聞きたいと思った。でも、音量をあげても同時におおきくなる雨の音でわたしはどうしてもふたりの会話を聞くことができなかった。だからわたしは「これは聞こえなくてもいい会話なんだ」と思った。もしも、映画のなかですべての会話が聞きとれるとしたらそれは監督が「それを聞かせようとしている」からだ。なぜ監督がそれを聞かせようとしているんだろう。それは「自分が書いた台詞が聞こえないのはもったない」と監督が思ってだけだからじゃないのかと、ときどき思う。ジエン社の演劇において、同時多発的に起こる会話の中身を聞きたいとわたしは思わなかった。どうしてだろうとわたしは思った。たぶん、きっとたぶんだけれど、それは彼らがけっきょくのところ彼らのあいだでしか話していないからだろうし、あまりにも現代演劇的にすぎるように思えるその形式に、わたしが飽きてしまっているからだと思う。ジエン社は見られるまえから飽きられている。それはどんなに異常なことだろう。どんなにかなしいことだろう。
 うすうす気づいていながらも気づいていないふりをしていたけれど、わたしはたぶん「寒い」ものがきらいなんだと思う。岡崎藝術座、瀬田なつき、そしてジエン社にでてくるにんげんたち、「寒い」ということは「それがおもしろいにもかかわらずだれも笑わない」ということだ、「それがかわいいにもかかわらずなにもかわいくはない」ということだ、でもわたしはたぶん笑えたほうがいいし、かわいいほうがいいと思う。
 ジエン社の演劇全般を通してもっともすばらしいと思ったのはアンケートの項目だった。


2 公園を中止する事や感激を中止する事について、お考えをお聞かせください。(いずれの設問も『状況によりけりだ』とはお考えになるかもしれませんが、それでも、お聞きしたいと思っています。)

a どのような場合に、公演を中止すべきとお考えですか?


 
 わたしは、なぜ劇団が公演を中止しているのかわからなかった。電車が動いていない等でほとんどのにんげんが劇場までたどりつくのが困難だ、とか、役者がはんぶん死んだ、とか、そもそも劇場がなくなっちゃった、とか、それならばわかるけれど、それ以外の理由で公演を中止にする理由がまるでわからない。そもそも、劇場というのはそんなに地震について危険な場所なんだろうか。問題なのは、わたしがわたしの部屋とその劇場のどちらかが危険なのかわからないということで、そして、これはただの憶測だけれど、おそらくその劇場で演劇をする劇団のひとたちもその劇場がどの程度危険なのかわかってはいないんだろう。スーザン・ソンタグは戦争で荒廃しきったサラエヴォに「ゴドーを待ちながら」を上演しにいった。そもそも明かりすらない劇場で、食べものもろくに食べていない役者たちを使い、そして、やってこないゴドーを待ちづづけるだけのふたりの男を描いたこの戯曲を上演することは、ほんとうは、どういうことだったんだろう。上演が不可能だと思われる場所で上演することは過去と現在の危険についての意志だった。けれど、日暮里という上演じたいは可能でありながらいつくるかわからない地震におびえながら上演することは未来の危険についての意志だ。過去と現在とは未来のことだ。そして、未来とはなんにもないということだ。


 それがネガティブであるという理由だけで「しにたい」は、不謹慎だと、不必要だと、悪だと、演劇は、ネガティブな、なぜやるのか?/このご時世で/悪だと/電力を/遣ってまで/すべきか?/人を/「お客様」を/危険に/晒してまで/すべきか?/近親や/友人が/災害に巻き込まれた/さなかにまで/やるべき/価値は?/あるのか?/そこに/だれか/居るのか?

 
 ジエン社社長、作者本介の言葉でわたしがひっかかるのは「べき」という部分だと思う。安川奈緒は「ひとはばらばらの時間のなかで、ばらばらの場所で死ぬべきだ」と言った。それは、9・11テロを受け、9・11で死んだにんげんがあたかも同じ時間、同じ様相で死んでいったかのごとく受けいれられていったことへの怒りだった。わたしはその言葉を9・11について書かれた言葉のなかでもっとも美しいと思った。「べき」とはネガティブでしか使ええない言葉だと、わたしは思う。
 やるべきものなんてひとつもない。どんな状況下においても、ひとつもない。わたしたちをだれかを救うべきではないし、だれかを殺すべきでもない、まして、愛するべきではない。「やるべき」ものが生みだすものは「やるべきではない」ものだ。ただそれをやらなかっただけなのに「やらなかったもの」は「やるべきではなかったもの」へと変わってしまう、そんなことにほんとうに耐えられるんだろうか。ここでこの演劇を「やるべき」ものへと変えたのは地震だ。地震が起こるまえから「スーサイドエルフ/インフレ世界」は上演されることが決まっていた。そのあとに地震が起きた。上演されるという行為だけは変わっていないのに、それは「上演されるもの」から「上演されるべきもの」へと変わってしまった。それは、受動的な意味にすぎない。意味を持ちたいのなら、それ自体が意味となれよ。「意味」とはそれ以外にほとんど存在する価値がない概念だと思う。「上演されるもの」から「上演されるべきもの」への変化は、わたしたちが9・11テロにおいて死んだにんげんすべてにたいして「あのひとたちは9・11テロで死んだ」というかこいこみ(意味づけ)をしたことに似ていると思う。
 わたしは、地震なんかまるでなかったようにすごしたい。それを、あったことから目をそらすありかたとはちがうやりかたでしたい。わたしはしれっとしゃべりつづけるし、しれっと沈黙を続ける。へらへら笑って生きていたい。そうじゃなければ、もう、わたしは演劇なんて見ない。
 ということとは関係ないけれど、渋谷までいってチャン・チョルス「ビー・デビル」を見た。とてもおもしろかった。「殺人者はだれだ?」というサスペンスものかしらんと思っていたけれどそうではなく、後半、「とにかく鎌さえふるっときゃなんでもいいよ」と思っているにちがいない熱意が感じられた。鎌でひとを殺す、というありかたにどれほどの現実があるのかわたしは知れないけれど、鎌をふるっているだけで映画になるというのは、ゾンビがひとを食っているだけで映画になるというのと近いと思う。鎌でひとを殺す、ゾンビがひとを食う、そのとき、鎌によって殺されているのは、ゾンビによって食われているのは、ひとだけでなく、物語や映画なんだと思う。だから、それらの映像はなによりもおもしろい。物語や映画なんかよりも、はるかに。
 べろーちぇでコーヒーを飲んで、アップリンクXで七里圭「ホッテントットエプロン―スケッチ」を見た。すばらしかった。ひとことで言えば阿久根裕子(驚異的なかわいさ!)が裸で赤い糸をぐるぐる巻きにして青い部屋のなかでざくろを食べては食べかすをぷっぷと吐きちらかしているだけの映画だけれど、炎の色がちょっとありえないことになっていたりしたから、うれしかった。台詞がひとつもない映画だった。それがどれほどめずらしいのかちょっとわからないけれど、すぐに思いだしたのが小林政広「愛の予感」という映画で、これもプロローグとエピローグ以外に主要人物の台詞もない(ここまで書いていて思いだしたけれど、キム・ギドクの映画はほとんど台詞がないんだったっけ。キム・ギドクの映画ではひとはたしかにしゃべっているんだけれど、話しかけれたひとはほぼ100%それを無視しているから、台詞はあるかもしれないけれど会話がない)。「愛の予感」の場合、陰鬱なおっさんが陰鬱な暮らしをひとりでしていて部屋ではドストエフスキーを読んでいて、わたしはこれを見て「なんて俺の40年後!」と思ってまったく絶望的な気持ちになったものだけれど、「ホッテントットエプロン―スケッチ」にはそれがない。というのも、たぶん、「ホッテントット」にはそもそも会話という概念もないし、沈黙という概念すらないように見えたからだと思う。ここちよかった。意味ありげな空間にはどんな意味もないように見えた。阿久根裕子にはしあわせもふしあわせもないように見えた。だから、阿久根裕子はほんとうは絶望かもしれない。それでも、わたしは阿久根裕子がかわいかったからなんでもよかったと思う。
「ホッテントット」は見にいくのを迷っていたけれど、見にいってよかったと思う。見にいこうと思ったのは黒田育世がすいせんの言葉を書いているからで、わたしは、演劇を見るときにひとの言葉を頼りに見にいっているから、演劇のちらしにたりないのは、ひとの言葉だと思った。演劇をつくっているひとの言葉ではなく、演劇を見たひとの言葉をちらしにのせてほしいと思った。事前に見せることがむずかしいのなら、その劇団についての言葉をのせてほしいと思った。わたしにはわたしなんてない。だから、わたしが好きなものはわたしが好きなひとが好きなものだ。いまはそれでいい。そっと静かに、それでいいと思う。
 アップリンクXで安部公房「砂の女」を読んでいた女の子がかわいかったのでずっとほくほくしていた。近代美術館にゴーギャンの絵を見にいったとき、赤い服を着たきれいな女のひとがいて、ゴーギャンの絵を見ずにその赤い服を着た女のひとを見て、女のひとの絵の見方を見て、それだけでぷいと美術館をでていってしまったことを思いだした。


 4月4日(月)

 会社にいった。




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