スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

架空のオペラ

2011.04.11(23:37)

涼宮ハルヒの消失 通常版 [DVD]涼宮ハルヒの消失 通常版 [DVD]
(2010/12/18)
平野綾、杉田智和 他

商品詳細を見る

 4月5日(火)

 会社にいった。さいきんぜんぜんちっとも藤野さんと遊べていなかったので、会社が終わったあと新宿で、いっしょにごはんを食べる約束をしていた。いつもどおり東口にいたら「きをてらって西口にいました!」とめーるがきた。わたしは藤野さんが西口から東口へこれるはずがないと思っていたから「西口にいくよ」と言った。西口へ向かっているとちゅうに電話がかかってきて「た、たいへんです!」と言われた。「ど、どうしたの?」と訊いたら「西口だと思ってたら南口にいました!」と言われた。び、びっくりした。
 新宿の街を、パスポートの話や都庁の話をしながらねりあるいた。「わたし今日タコライス食べたんです!」と彼女は言った。お店にはいったらメニューを見ながらむむむむと彼女はうなって「タコライス食べます!」と言ったのでびっくりした。奥が鏡ばりになっている店で、彼女はそれは鏡なのに「え! 果てがありませんよこの店!」ってさけんでいたのでびっくりした。帰りにコンビニでアイスを買って食べながら帰って、寒かったのでびっくりした。なんでこんなにびっくりするんだろうと思った。この子はいったいどういう子なんだろうと思った。ちょっと意味がわからなかった。帰った。


 4月6日(水)

 会社にいった。新入社員のIOくんをわたしは受けもっていて、今日は連休の話をした。IOくんに「休みはいつとるか決めてあるの?」と訊いたら「決めてます」と言われた。「あの、コミケって知ってます?」と言われた。「知ってるけど」と言った。「あの前後にとろうと思うんです。最終日が日曜日だからきっと疲れちゃうんで月曜日とかむりだと思うんですよ」とらんらんと言っていた。でもきみはたぶん夏休みは自由にとれないと思うよと思ったしそう言った。上司に相談してみるといいよとたきつけておいた。情熱をかたむければきっとコミケにもいけるさ。そろそろIOくんの顔を覚えなければいけないなあと思った。


 4月7日(木)

 会社にいった。帰ってからもとくになにもしなかった。こころが荒れて、かさついていた。


 4月8日(金)

 会社にいった。帰ってから「群像」を立ち読みしにいったけれど近くのおおきな本屋さん2つとも扱っていなかった。こころが荒れて、かさついていた。


 4月9日(土)

 病院にいって、それから本屋さんにいって「群像」を立ち読みし、プロジェクトマネージャー試験の参考書を買った。ぱらぱらめくりながら「これってもしかしてプロジェクトマネージャー的なひとが受ける試験じゃないの?」と思った。論文の内容がプロジェクトマネージャーとしての立場で書くようになっている。何年後の話なんだろう。やる気をなくした。
 図書館に、コーヒーの染みがついた岡田利規「エンジョイ・アワー・フリータイム」などを返しにいった。あとで電話がかかってきて「新しいものを買ってきてください」と言われた。ごめんねと思った。ぶっくおふにいって「ダイの大冒険」を読み、バランが死んでしまうところで号泣した。4時間くらい読んでいたら気持ちがわるくなったから帰って眠った。なにもかもが不愉快だった。


 4月10日(日)

 早起きをして、早稲田松竹までテオ・アンゲロプロス「エレニの旅」、「蜂の旅人」を見た。アンゲロプロスの描く群衆はどうしてこうも美しいんだろう。「エレニの旅」のなかのただ歩いているひとたち、ただ舟を漕いでいるひとたち、劇場のカーテンの隙間からのぞいているひとたち、それらのひとびとの美しさにわたしは対抗できるものを持っていない。「エレニの旅」を見て、わたしは「映画というものはカメラのなかににんげんをどう配置するのかという問題にすぎないんじゃないか」と思った。わたしがいちばん好きな映画、タルコフスキー「ノスタルジア」で、狂人が世界救済のため高い像のうえにのぼり演説をするシーン、あのとき階段に立っているひとびとの幾何学的配置を見たときわたしはぞっとした。こわいような、美しいような気持ちがした。たとえばそういうことなんだと思う。「エレニの旅」で横にゆっくりと動いていくカメラは同時に無限のひろがりを見せていると思う。あれは、きっと撮ってはいけない映像なんだと思う。うつってはいけないものがうつっている。けれどそれは同時にうつらざるをえないものかもしれない。「エレニの旅」はできあがった瞬間にすでに古典なんだと思う。言いかたがよくないかもしれないけれど、アンゲロプロスが撮っているものは生成された瞬間に100年の重みを内包しているように見えた。いま世界でそんなものを撮っているひとをアンゲロプロス以外にわたしは知らない。映画の質があまりにちがいすぎて、うっとりする。
「蜂の旅人」は寝ていたので覚えていない。新文芸坐にいって、石原立也総監督、武本康弘監督「涼宮ハルヒの消失」を見た。おそろしいほどのテンポのわるさが気にかかった。この内容で2時間45分もあるのがいったいどういうことなのかわからなかった。つくりてにしてもこの2時間45分をつくりあげることにどう耐えているんだろうかと思った。そのテンポのわるさはたぶんキョンの独白に原因のひとつがあるんだろうと思う。「語らせなければいけない」ということは「それに付随する映像をつけなければいけない」ということで、それは、よくもわるくも映像に言語が先だってしまう。そういう意味で「涼宮ハルヒの消失」はみんなが(つくりてですら!)思っているだろう映画ですらなく、おそらくヴィジュアルノベルゲームなんだと思う。映画館で上映されているものがすべて映画であるとはかぎらないし、映像を本質とした媒体であるともかぎらない。けれど七里圭「眠り姫」がそうであったように「涼宮ハルヒの消失」はヴィジュアルノベルであることを巧妙に隠していると思う。それが隠されてしまうのは、本質的にこの監督たちが「映画を撮れるひと」だからだと思う。新海誠、園子温の映画をわたしはほんとうに好きだけれど、たぶん、彼らは本質的には「映画を撮れないひと」で、「映画を撮れない」が最大の才能だと思う。「自殺サークル」、「エクステ」はもうまっとうな映画としてほとんど破綻している(へたすぎる)とわたしには思えるし、新海誠はなにを撮ってもPVになってしまう(園子温は「冷たい熱帯魚」でふつうに映画を撮ったように思えて、心配している。だいじょうぶか園子温)。園子温や新海誠が表現したいものはたぶん映画じゃないんだろう、たぶん、彼らはみずみずしいこころを持った中学生が絵を描くような気持ちで映画を撮っているんだと思う。そして、「涼宮ハルヒの消失」は独白主体で語られながら園子温や新海誠とまったくちがうやりかた、まったくちがう思想で撮られていると思う。興味深いのはそのてんで、そして、つまらないものそのてんだと思う。キョンの独白がなくても、長門やみくるがおどおどしているだけでばかみたいに時間がすぎさっていくんだろう。ハルヒが消失してしまったことに気づいたキョンの反応シーンを見て、この映画がまったく異質なものに見えて愕然とした。まわりのひとは「熱があるんじゃない?」と白痴そのものの台詞を平然と吐き、それがなりたっている。長門やみくる、ハルヒや小泉の言葉や仕草を見ているときおそらくわたしはひとりのキョンだろう。けれど、この映画ではキョンがキョンであることに耐えられるひとしか対象にしていないように見えた。この映画は、キョンがキョンであることに耐えられないというひとを相手にしない、まったくの独善でなりたっているように見えた。だから、キョンは長門が「そういうふうな女の子としてつくられた」ことに否定を投げかけ、それで熱くなることできている。わたしは、キョンではない。
 あと、関係ないけれど、「~のよ」というしゃべりかたがいまだに許容されているのがわたしにはほんとうにわからない。「~のよ」とか「~わよ」なんてしゃべる女の子なんて現実に見たことがないけれど、みんな見たことあるんだろうか。数十年まえの日本映画を見てびっくりするのが「~のよ」がたやすく許容される場所やふるまいがあることだった。「~のよ」なんて小説家が読者に、あるいは小説家本人にいましゃべっている子が女性であることをわからせるためでしかないと思う。だとしたら映画のなかで「~のよ」なんて言う必要なんてまったくないわけだし、「~のよ」がかわいいとも思えないし、ほんとうにほんとうにわからないからときどき困惑してしまう。そういうことはそもそものはじめとして、ほんとうに大事なことだと思うから、わたしは、わたし以外のひとがそのことについてもっと問題にしていいと思う。わたしは原発よりもハルヒが「~のよ」なんてしゃべっているほうが遥かに重要な問題だと思う。もしもかりにそんな程度のことにほんとうに意識を向けられないのなら、そのつくりては美意識が決定的に欠けていると思う。
 原恵一「カラフル」を見て泣いた。ジム・クレイス「隔離小屋」を読みながら帰って、眠るまえにランボオ「イリュミナシオン」(金子光晴訳)を読んだ。なんとなくだけれど、金子光晴訳は日本語で、小林秀雄訳は外国語のように思った。「そっか。小林秀雄訳のランボオがばかみたいにかっこうよくて意味がわからないのは外国語だからなんだ」と思って、もうをひらかれた。でもわたしはやっぱり小林秀雄訳のランボオが好きだ。「寂しさの歌」はたしかにわたしが知るなかで日本語で書かれたもっとも密度ある詩かもしれない、「恋人よ。たうとう僕はあなたのうんこになりました。」と歌った金子光晴は戦後最大の詩人かもしれない、でもわたしは小林秀雄訳のランボオの文章が世界でいちばん好きだ。

 俺は架空のオペラとなった。
             ――ランボオ



 4月11日(月)

 会社にいった。夕方地震が起きた。わたしはAさんが髪型を変えたせいだと思う。もうなんか会社にいく気力すらなくなった。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/927-ccb451f5
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。