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ままごと「わが星」@三鷹市芸術文化センター

2011.04.18(00:45)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)
(1999/08)
橋本 治

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 4月12日(火)

 会社にいった。とくになんにもなかった。帰りにどとーるへいってジム・クレイス「隔離小屋」を読んで、文章を書いた。


 4月13日(水)

 会社にいった。とくになんにもなかった。SSくんたちとお花見をしようねと言っていた。それは、けれどやめになった。べつにわたしたちはお花を見たくないからねと言った。それでも、だれかといっしょにいる時間が欲しかったんだと思う。
 帰りにどとーるへいってジム・クレイス「隔離小屋」を読んで、文章を書いた。

 
 4月14日(木)

 会社にいった。とくになんにもなかった。


 4月15日(金)

 会社にいった。
 会社で席替えがあって、スタッフのKKさんがべつのチームの仕事を請けおうようになるので、送別会をやった。わたしはだれともうまく話すことができないからKKさんともうまく話すことができなかった。TSさんに「きみはいつも家でなにをやっているの?」と訊かれた。「本読んで小説書いたり日記書いたりしています」とは言えないから、「本とか読んでます」といつも答えているけれど、「ふうん」と言われた。「なんでそんなにまじめなの?」と言われた。「まじめじゃないですよ」と言った。でもほんとうはわたしはすごくすごくまじめなのかもしれない。だからわたしはふまじめになりたいと思っているけれど、わたしが思う「ふまじめ」に至るための選択は「会社をやめる」ということしか考えられなくて、その想像力のなさに、ときどきぞっとする。「なんでそんなにまじめなの?」というのには「なんで合コンとかしないの?」という問いがふくまれていたけれど、でも合コンってどうやればいいのかわたしは知らない。どうしたらだれかとうまく話をすることができるんだろうと思う。「うまく会話ができた」と思えた経験が人生においていっぺんだってない気がする。たぶん、うまく会話をしたいとほんとうには思っていないんだろう。
 11時30分くらいまで飲んでいて、誘われてカラオケにいった。「明日予定がありますんで」と言って強引に帰ることもできたけれど、そういうもののあとにカラオケにいくということもふまじめさの証だろうと思っていって、3曲くらい歌った。でも、たぶんちがうだろうと思った。わたしはわたしのチームのひとたちのことを好きだと思うけれど、何人かが疲れて眠りはじめて、盛りあげようとしているひとたちがそのいっぽうにいて、そういう、たのしいのかもしれないたのしくないかもしれない雰囲気のなかにいると、きゅっと締めつけられるような気持ちになる。いっぱい飲んでいたし、次の日にもしかしたら吐くかもしれない、そういうなかで夜中までいて得られるものはなんだろうと思う。でも、もしかしたらそのときはたまたま得られなかっただけで、こういうことを続けていれば得られるものだってあるのかもしれない。ずっとまえ、三角みづ紀さんのライブのあと終電を逃して、管城さんと横浜と桜木町を一晩中ぐるぐると歩きまわったことを思いだした。野球場のそとのベンチに座って、赤レンガ倉庫から山下公園までをまわって、9月はもう肌寒くて、1本だけコーヒーを買って飲んだ。あのときわたしたちはたくさんの会話を交わしたはずだけれど、そのなかでわたしが覚えているのはたったひとつだけで、そのひとつもここには書かない。だから、きっと何年かしたらその内容も忘れてしまうのかもしれない。わたしはそれを美しいありかたで忘れていったらいいと思う。得られないものは、得られるものよりもきっとずっと美しい。映画を見るときも、小説を読んでいるときも、その内容を覚えようと思わない。それでも、そのときうつっていた映像を、そのときページに展開されていた文字のつらなりを、わたしはわたしとしてたしかに浴びていて、わたしが信じるのは、信じようと思うのは、その照射の蓄積がわたしをすこしずつ変容させていくということだ。わたしは映画も小説もひとも信じていないかもしれない、でも、信じようと思えるものがたったひとつでもあるなら、わたしはそれらのものが好きだし、もっと、好きでいたい。


 4月16日(土)

 風邪をひいたのか、しゃべりすぎたのかわからないけれど、喉がとても痛くて、たいへんだった。ままごと(柴幸男)「わが星」を見にいこうかどうかずっと迷って、それでも、気だるい身体をひきずって歩いた。三鷹駅は遠くて、駅からも三鷹市芸術文化センターは遠くて、寒くて、何度もくじけそうになったけれど、歩いた。
「わが星」がほんとうにすばらしい作品でよかった。何十億年もの時間、ちきゅうという女の子、月という女の子、台詞はラップでみんな歌って踊って、光速を越えて孤独を救いにいく男の子、いまの光をつめたタイムカプセル、たとえば、そういうことをならべたところでこの演劇のすばらしさのなにをも語ることができないことを、とてももどかしく思う。柴幸男の演劇は「スイング・バイ」と「わが星」しか見ていないけれど、特徴はたんじゅんで、「想いは届く」ということだと思う。何十億年もの時間、何億光年もの距離をはさんで、わたしたちはさみしさを抱えこんできたんだと思う。いまのわたしも宇宙のなかで蓄積されてきたさみしさの波動のようにさらされていて、だから、かりにわたしがさみしさを感じるならばそれはもうどうしようもないことなのかもしれないと思う。それでも、わたしたちには想いがあって、それが届くちいさな瞬間みたいなものがきっとあって、そういうものを待つことでわたしたちはさみしさの波動に犯されることなく生きていけるのかもしれないと思う。だから、問題は「待ちかた」なんだと思う。待つということは、けっきょくのところ「きっと来てね」ということだと思う。「きっと来てね」がわたしたちを成りたたせている。かつてはそれはキリストの、弥勒の役割だったかもしれない。けれど、いまわたしたちはだれかに「きっと来てね」と自信を持って言うことができるようになったから、わたしたちは「きっと来てね」を信じていいんだと思う。そして、できうるならばわたしは「きっと来てね」を全力でやりたい。
 地震が起こったあと、わたしは被災したひとびとやこの社会について「祈らない」と積極的に言った。そのなかには「祈りかたを知らない」というものもあったし、「祈ってもどうにもならない」というものもあったし、「俺が死んだわけじゃない、俺が好きなひとたちが被害にあったわけじゃない、だから俺にはあんなもの関係ない」というのもあった。「祈る」と言っていたひとも、企業も、全員きたなく見えてしかたなかった。「こういうときにはこういうこととりあえず書いとけばいいんだろう」としか思っていないように見えた。それは、けれど表面のことでもあった。それらについてとてもこころを痛めていて、けれどそれにふさわしい言葉がなかったから「祈る」を選んだひともいたかもしれない。問題は「祈る」までの過程でだと思う。けっきょくのところ、ひとびと、企業としてそれを群衆だと決めつけて勝手に見下しているわたしがいちばん醜いのかもしれない。どうしたらいいのかちっともわからない。こういう考えは、けっきょくのところ「こころを痛めることができたらそれでいい」というふうにおちいっていくんだろうか。「こころを痛めることができたなら」だれかを殺してもいい、だれかを犯してもいい、けっきょくのところ近代文学がうちたてたものはそれで、だとしたら、それは、ただの劣等感だ。「痛みを感じられないわたしはくずだな」とわたしはほんとうに思っていて、ばかだなと思う。くだらないだろう。そんなもの。
 地震はたいした問題じゃなかった。社会のありようを、たとえ積極的な行為によって関わっていくということでなくても、考えていくことがなければ、それはけっきょくのところたいした問題じゃなかった。会社にしても、わたしはどうしても「この会社のなかでやっていくぞ」という気持ちが持てず、ずっと「お客様感覚」でいたし、いるんだろうと思う。社会についてなにかを言うんだったら、「わたしはやっぱりアニメでもドラマでも映画のなかでも『~わよ』という言いかたをすべてやめろ」とか、そういうことを言いたい。それをすることでなにかがよくなるんだろうかといえば、わたしにはわからない。村上春樹「1Q84」がたくさん売れたとき、今村亮さんとそれについて話していて、わたしは「たとえば、この国のひとすべてが『1Q84』を読んだとして、それが世のなかが変わるんですか? 俺は変わらないと思います」と言った。だから文学なんて無意味だとわたしは言った。それはいまでも変わらない。この国にある作品と呼ばれるものすべてのレベルがあがればそのぶんだけこの国のひとひとりひとりのこころは豊かになるんだろうか。たとえば、そういうことはまっさきに考えなければいけないはずなのに、わたしは、そう言い、そういうことについてまともに話しているひとを見たことがない。それは、「作品のレベル」というものを測ることができないからというものもあるだろうし、作品なんてものをほんとうにはみんなが信じていないということもあるかもしれない。大塚英志や東浩紀は「作品や物語は消費物となっている」と言っているように見える。たとえば、ひときれのパンとひとつの作品はどうちがうんだろう。そのちがいを説明できるひとはほんとうにいるだろうか。「俺はパンを食うようには作品を食ってはいないぜ。俺がいい作品を見たいと思うのは俺がうまいものを食いたいという気持ちとはべつのことだぜ」と自信を持って言えるだろうか。わたしは言えないし、その態度が作品を享受するうえで不適切な態度だとも言えない。けっきょくのところ、わたしはパンを持っている。そして作品も持っている。だから、わたしにはそのふたつのものをうまく区別することができない。そういうことを考えたっていいはずだ。でもやっぱり「ひとつの作品はひときれのパンと同じだ」とだれかに言うひとは、あまりいないと思う。
 祈りの話だった。わたしが「祈り」についてなにを書こうとしたのか、ここまで書いたとき、もう忘れてしまった。けれど、そもそものはじめはわたしは「祈るのならわたしはわたしの友達に、わたしの好きなひとに祈りたい」と思った。そして、おそらくわたしはパンを手渡すよりも(他人の)作品を手渡したいんだと思う。わたしはパン屋さんではない。わたしがパン屋さんである必要なんてない。ままごと「わが星」はいわき市でも上演される。わたしは、見てほしいと思う。実際に上演された「わが星」とそれを見るわたしには0.00…………0001秒の隔たりがあるだろう。けれど、そのなかにはきっと想いがはいる余地だってあるだろう。


 4月17日(日)

 国立新美術館にいき、エドワード・ヤンを見にいくつもりだったけれど、身体中がだるくて、寝てばかりいた。2時に起きて4時に眠り、9時に起きて、いまこの日記を書いている。昨日買ったグレープフルーツがとてもおいしかった。なんでこんなにおいしんだろうと思った。
 雪さんの日記と、粽さんの日記をむさぼるように読んだことがあって、それは、わたしがこのひとになりたいと思ったからだった(いまも思っている)。そのあと、わたしは「それはけれどそのひとたちが同時に抱えんでいるだろう痛みやらなにやらについて、そしてその経緯についてまるごと無視した欲望だ」というふうに思って、そう書くことはやめてしまった。一時期、わたしは「やさしくなりたい」と毎日のように書いていた。そういうことはぜんぶつながっている。たとえば、それらについてなにかを書くことはできないけれど、今日は、ひさしぶりにそういうことを思いなおして、ほんとうに大事なことはそれだけかもしれないと思えさえするから、それだけを、書いた。
 橋本治「宗教なんかこわくない!」と「日本の行く道」を再読した。おそらく世界でいちばんすごい本たちで、頭をとんかちでがつんがつんやられたくらいの衝撃がおそってきてこころによくなかった。
「宗教なんかこわくない!」を読んで、若松孝二「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を思いだした。この映画を見ていちばん衝撃的だったのは、ベースで軍事訓練をおこなっていた赤軍たちのくだらなさだった。弾をこめない鉄砲を持って「ズドーン!」と口にだしてしゃべり、指導する立場のにんげんは「もっとまじめに、大声で『ズドーン!』と言え」と本気で怒っていた。こんなくだらないことをおおまじめにやっていることはけれどばかにできない。オウム真理教はくだらないことをおおまじめにやってサリンをまいたんだろうし、連合赤軍だってあさま山荘で機動隊を殺している。だから大声で「ズドーン!」と言うことはほんとうはひとを殺すためにたいせつなことだったかもしれない。たとえば、選挙でも「ズドーン!」をやっている。選挙カーに乗って名前を連呼し、手をふる。知らないひとを駅の出口に立たせ会社帰りのひとに「ご苦労様でした!」と声をかけさせる。これらは「ズドーン!」と同じことだ。ただ、やらせているひとたちがそれに気づいていないのか、気づいていてやっているのかはわからないけれど。現実はくだらないし、こんなにもグロテスクだ。あえて呼びかけるけれど、これはわたしたちひとりひとりの問題だ。わたしたちひとりひとりがこんなにもグロテスクな「ズドーン!」を毎日やっている。わたしたちはすこしはそれを自覚して、すこしずつでいいから、現実をもうちょっときれいなものに変えていくべきだ。
 エドワード・ヤンを見にいっておけばよかったなと思った。




コメント
とどのつまりは、「無用の用」じゃないかなあ~、と夢想します。文学なんて「うまい棒」と同じで別に何かの役に立つものではないでしょう。でも、この世から「うまい棒」がなくなったら私は悲しいです。チロルチョコがなくなったら同じくらい悲しむでしょう。

え~と、もうかなり前のことになりますが、「キックアス」の存在を教えてくれてありがとうございました。しょうゆ豆ランドでは3月になってやっと上映してくれたんですよ。感想「クロエ・グレース・モレッツは永遠に年を取るな。ニコラス・ケイジさいこお」。
【2011/04/21 16:49】 | 上田洋一 #- | [edit]
上田洋一さん

それでも「うまい棒」は権威なんだと思います。
それでも「チロルチョコ」は権威なんだと思います。
ちがいがあるとしたら
僕は「うまい棒」も「チロルチョコ」を
積極的に信じようとしないことです。
【2011/04/27 23:31】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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