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友達になりたい

2011.04.27(23:10)

Quarternote~THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2000Quarternote~THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2000
(2002/02/06)
小谷美紗子

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 4月26日(火)

 日記だってほんとうは書きたい。書くことでたとえば会社の生活がとても、とてもじゃなくても、すこしずつたのしくなれば、流れていった過去はすべて美しいといったきれいごとでもよければ、それがいい。
 会社にいって、なんだかとてもひさしぶりに7時30分ぐらいまで残業をして、それからまっすぐに帰った。「友達になりたい」と言ったのはだれだったっけと考えていた。たぶんキルアだと思う。その対象がまぶしくってはかれなくて、だから、キルアはとても恥ずかしかったんだろう。光はこわいけれどきれいだった。わたしは光にふれるととても恥ずかしく思う。せつなく思う。いたたまれなくって、しっぽを巻いてしまうかもしれない。ちうちう、ねずみみたいに。いっぱいもらった。だからさみしかった。そのひとのことを好きだと思うなら、わたしはそのひとがどうであっても好きだと思う。


 4月27日(水)

 会社にいった。とくになにもなかった。帰りにどとーるにいって文章を書いた。
 ベケットがどこかで「雨が降った。雨は降っていなかった」という文章を書いていた、という文章をどこかで読んだ記憶がうっすらとあるけれど、それが奇異に感じられるのは、その文章が矛盾しているからだ。でも、わたしがそれを「矛盾だ」と感じるのはつねにその尺度を現実に求めているからなんじゃないかと思う。現実で、貿易センタービルに飛行機がつっこんだときに「映画みたい」とつぶやくとしたら、それはそのできごとがいやおうなく現実であることを示しているように思う。わたしたちが現実と呼んでいるものがやっかいなのはそれがわたしたちの感じかたにかかわらず現実としての認識を強要してくるからで、文章というものはその強要を逃れている。だから、「雨が降った。雨は降っていなかった」という文章も、その文章が書かれたことによって文章が現実化されるのだとすれば、それは矛盾でもなんでもない。フィクションについて「リアルだ」、現実について「映画みたい」と言うことはほとんど同じことで、それは、たがいに同じものを認めている。現実とフィクションが転倒するとしたらそれはわたしたちがそう言ったときで、もしもかりにわたしたちがベケットの書いたことを身体できちんと受けとめることができるなら、わたしたちはにんげんとして、すこしずつやさしくなれるのかもしれないと思う。言葉の問題とはすべてそういうことなのかもしれないと思う。「雨が降った。雨は降っていなかった」、それが同時に起こる瞬間がたしかにあるだろう、わたしたちはその瞬間のことをいまだ名づけていないからそうとは思えないだけで、そういう瞬間がたしかにあるのなら、それが発生する場所は小説でも現実と呼ばれるものでもかまわない。




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