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森新太郎「ゴドーを待ちながら」@新国立劇場

2011.05.01(23:49)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)
(2008/12/26)
サミュエル ベケット

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 5月1日(日)

 にんげんは何百年、何千年とビジネス的なことをしてきて、どうしていままで飽きないでこれたんだろうなと、さいきん、ちょっと思った。戦争を減らしていこう、核兵器を減らしていこう、ということは言うのに、どうしてビジネスを減らしていこうと言うひとはいないんだろう。景気がわるくなったくらいでいろいろなものごとがだめになっていくのなら、景気という概念に影響されない世界的な社会システムを本気でつくりあげていけばいいのに。もう21世紀だっていうのに。そんなにビジネス的なもので動いていく世界的なシステムって大事なのかな。よくわからない。
 がんばって早起きをして、新国立劇場で森新太郎演出「ゴドーを待ちながら」を見た。ベケットについてはもしかして世界でいちばんおもしろいものを書いちゃったんじゃないかなと思えるところがあるし、代表作だから1度は見なくては、という思いでいったけれど、結果的にいえば、「つまらなくはない」という感じだった。これはたぶんわたしの問題で、この手の現代口語的ではない演劇はやっぱり好かないというのがよくわかった。今年見た演劇でしんそこすばらしいと思ったのは五反田団「俺のお尻から優しい音楽」とままごと「わが星」で、たとえばこういう演劇をいちばんに据える価値観と「ゴドーを待ちながら」をたのしめるというものがどの程度同居できるんだろうと思うと、なんとなくかなしくなった。「つまらなくはない」というのも微妙な問題で、演劇を舐めきっているのかもしれないけれどテクストがしっかりしていれば演技ができる俳優をてきとうに呼んでてきとうにしゃべらせておけば「つまらなくないもの」はできあがるだろうとなんだか思えて、だから、「おもしろいもの」をつくることはたぶん「つまらないもの」を「つまらなくないもの」へと変えることよりも遥かにむずかしく、そしてそれだけが、演出家の仕事だとなんとなく思う。いま現在ベケット「ゴドーを待ちながら」をやる意味はなんだろう。「いま現在」というところに焦点をあてるなら戯曲を読めばいいだけじゃないかな。ロシア語はわからないけれど、もしもかりにいまこういうやりかたでベケットをやるのなら、ソクーロフ「チェチェンへ」みたいな撮りかたで演出するしかないんじゃないかなとわたしは思う。やってきはしないゴドーを待つふたりの男は、ただ退屈さをまぎらわすためにひたすらにたわむれている。筋としてはこれだけだと思う。およそなにも持たない、みじめに生きてきたことだけが推察される男ふたりはゴドーを救いとして見ているけれど、この男たちはそれでもたのしそうだった。たわむれているかぎり、ゴドーはやってこないだろう。けれど、このふたりはゴドーを待つことができるといういってんでだけ救われているのかもしれない。わたしは、ゴドーを待つことすらできないのかもしれない。
 ベローチェで文章を書いたり、村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだりしてから、新宿パークタワーホールでワン・ビン「名前の無い男」を見た。ゴドーを待つことすらできない男をひたすらうつしとったドキュメンタリーだった。廃墟となった村で、洞窟のなかでたったひとりの男が暮らしていた。男はなにもしゃべらず、動くのもおっくうそうで、畑を耕し、ごはんを食べ、眠っていた。建物もない。ほかのにんげんもいない。男は言葉にすらならないうめき声をあげながらただひたすらごみのように生きていた。この映画がすばらしいのは、どこまでいってもこの男にかなしみを抱くことができないということだった。建物もなくほかのにんげんもいないので、この場所ではない場所が滅んでしまっていても、おそらくはこの場所にとってなんの関係もなかった。あらゆるものと関係がなかった。関係が生じる場所も、ひともいなかった。いるのは夏に洞窟を飛びまわる虫ぐらいだった。けれど男は虫にすら反応しようとしなかった。この映画にうつされていた男をにんげんと呼んでいいのかわたしにはよくわからなかった。にんげんのかたちをしていればそれはたしかににんげんかもしれない、けれどいっぴきの獣が1年をすごすやりかたとこの男が1年をすごすやりかたのいったいどこがちがうのか、わたしにはよくわからなかった。この男に「かわいそう」と呼びかけることはたぶん猫に「かわいい」と呼びかけることと同じなんじゃないだろうか。「かわいい」と言うとき、わたしは猫に話しかけてはいない。そのときわたしはわたしのとなりにいるだれかに話しかけているはずだ。この男に話しかけることはわたしたちにできるのかな。となりにいるだれかに向かって「あのひとかわいそうだね」と話しかける以外のやりかたが、わたしにはまだ、のこされているのかな。




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