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「シュルレアリスム展」@国立新美術館

2011.05.08(04:08)

ニュークリア・エイジ (文春文庫)ニュークリア・エイジ (文春文庫)
(1994/05)
ティム オブライエン、Tim O\'Brien 他

商品詳細を見る

 5月7日(土)

 お昼すぎまで寝ていて、起きて、六本木まで国立新美術館まででかけて「シュルレアリスム展」を見た。ダダ、シュルレアリスムともにどう受けとめていいのかよくわからないところがあって、たぶん、わたしはデュシャン「泉」と同じようにしかおおかた見ていないんだろうと思う。「泉」なんていうものは既存のトイレにサインしただけで、「こういうことをしましたよ」ということだけが価値を生んでいるようにしか思えない。ジョン・ケージの曲に演奏すると600年くらいかかる曲があっていまも演奏されているらしいけれど、それは、そういう曲があり、それを演奏するという美しいいとなみがあり、ということだけで、もうその音色じたいにたいして価値があるとは思えない。エリック・サティ「ヴェクサシオン」(1分くらいの曲を840回くりかえす)、小杉武久「革命のための音楽」(5年くらいかかる、しかも最初に片目をえぐりだして最後にのこった目もえぐりださないといけないらしいのでだれも演奏していない)とか、もう、なんかちょっと落ちついてほしいと思う。サティは「ジムノペディ」とか耳がふやけてしまうほど美しい曲をつくれるのにもうどういうことなんだろうとときどき思う。シュルレアリスムのオートマチスムとかも、わたしには「こういうことをやりましたよ」というぐらいの意味しか見ることができない。でも、そういうこととは関係なしにエルンスト「最後の森」の緑色よりもきれいな緑色をわたしは知らないので、とてもうれしかった。
 渋谷で反原発デモを見た。「原発とめろ!」とたくさんのひとが言っていた。ひとが高いところにのぼって旗をふっていた。歩行者用の信号がとめられ、ひとは車の隙をぬって歩いていた。男のひとが「警棒でぼこぼこに殴られてもらわなきゃおもしろくない」と言っていた。その言語は、わたしがさいきん聞いたなかでもっとも醜い言葉であると同時に、もっとも現実的な言葉だった。おそらく数千人が参加しただろう反原発デモの「原発とめろ!」の複数の言葉よりもたったひとりの男のひとが言った「警棒でぼこぼこに殴られてもらわなきゃおもしろくない」のひとことのほうが現実味をおびたわたしの価値観のなかで、たとえばそれらのものごとをどう受けとめていいのか、わからなかった。たくさんのひとが携帯電話のカメラで写真を撮っていた。映像作品やマンガのなかでなにか事件が起きたとき、あるいは秋葉原の通り魔事件のとき、携帯電話で写真や動画を撮ることの醜さを揶揄されていたことをわたしは知っているし、わたし以外のひとも知っていると思う。デモを撮ることと秋葉原の通り魔事件で傷ついたひとを撮ることはなにかちがうんだろうか。わたしは、すくなくともわたしが醜くなることがこわくてそれらを写真に撮ることはできない。撮りたいとも思わない。写真を撮ることは、なにかの役割をもってそこに参加することでしかない。わたしは参加しないことを望み、こそこそと、やもりのように雑踏を通りぬけていった。わたしも原発なんてなくなればいいと思う。わたしだって放射能はこわい。けれど、わたしは原発がなくなったときに日本の経済がどうなり、その影響を受けたわたしの生活が、わたしの身体がどうなるのかなにひとつ知らないし、想像することもできない。そして、想像することもできないままにデモやデモを写真に撮るということに参加することがこわい。言葉を発すれば、行為をすれば、ひとは必ずどこかまちがう。必ずだ。わたしはまちがいがこわいと思う。それは卑怯者の考えで、わたしは卑怯者だと思う。いまこの社会のなかで、わたしになにができるだろう。そして、なぜわたしはなにかをしなければいけないと考えなくてはいけないんだろう。ひどくつめたいのは、きっとそこだと思う。なぜわたしたちはなにかをしなくてはいけないと考えざるをえないのか。それはやさしさなんだろうか。それは同情なんだろうか。それとも嘲りなんだろうか。そう考えさせるなにかがあり、そのなにかとはなんだろうか。知らず知らずのうちにわたしたちは弾圧され、わたしたちはそれに負け、募金箱に小銭をいれていく。


 誰かの善意を否定したくない。けれど、その善意で押しつぶされることもあるのかも。そうかもしれない。

 意外なことに一番、自分の心がざわめいたのはこうした、善意による行動の数々であった。特に被害の少なかった東京の人たちが一番、騒いでいるように見えたからだ。情弱の人に情強な自分が正しい情報を伝えなくてはという使命感。当事者がほったらかしにされて、勝手に悲観して、何かしなきゃ何かしたい何をしようと慌てている。私たちにできることは、限られているのに。限られた中の一つを無駄にしているような気がして、もったいないと感じてしまい、それは次第に怒りに変わる。けれどその怒りはお門違いだと気づけ。もちろん、怒りを感じる人の気持ちもわかる。自分の中にも同じような感情が芽生えたから。それを否定するのか。否定できるのか。わからない。いや、できないし、したくない。否定などできるわけがない。そう感じてしまう、感じてしまったことは事実なのだから。いまさら変えられないだろう。それは自分のもうひとつの姿。そうなってしまったかもしれない可能性。誰かが代わりに受け止めてくれた。そういう考え方はできないだろうか。

「がんばれ日本」も「あなたは一人じゃない」も「繋がろう日本」も「一つになろう日本」という言葉が最高に気持ち悪い。がんばれ日本って、日本ってがんばるもの?あなたは一人じゃないって、私は一人ですよ。何人もいたら気持ち悪い。繋がろう日本って、繋がってるでしょ日本。一つになろう日本って、もともと一つしかないよ!日本なんて。なんという頭の悪いスローガン。もうちょっと考えろ、広告の人。こんなときこそ、広告ができることがあるはずだ。がんばらなきゃいけないのはおまえのほうだ。イカしたキャッチコピーを、言葉が無意味に思えるほどのヴィジュアルを出してほしいよ。まったくだ。仕事をまっとうしろ。やれることをやれる人がやればいい。全力で。誰かのためにと思う善意はこういうときに発動すればいいんじゃないのか。
        ――吉田アミ/そうしないと、前に進めない


「がんばれ日本」という言葉も弾圧だとわたしは思う。だから、そんな言葉にはぜったいに反対する。とても気持ちがわるいと思う。善意というものが気持ちわるかった。震災直後、わたしは「あらゆる言葉を醜く感じた」と書いた。祈りが、なによりも被災者に祈るということが気持ちわるくてしかたがなかった。わたしは、なにかがわたしを弾圧していると思った。息苦しかった。それにくらべれば、わたしがそうであったように、まるでなにごともなかったように平然と会社にきて平然と笑ってなにかをしているひとのほうが、よっぽどまともに見えた。わたしにはわからなかった。「震災以降世界は一変した」と書いているひとを何人か見た。なにが変わった? わたしにはお米とたまごと牛乳と納豆と水と煙草の流通量と電車の本数が変わったようにしか見えなかった。そして、たとえば善意と呼ばれるもの、それはもともとあったかもしれない、けれどありったけの善意が密集して蛆のようにおりかさなって、ぐちゃぐちゃとした、気持ちのわるいものになった。デモについてわたしがわからないのは、それがはたして善意なのかということだった。「原発とめろ!」の声はだれから発され、だれに向けられたものだったんだろう。わたしはうまくその声を聞くことはできなかった。「原発とめろ!」の声なんてネットを開けばたくさん流れている。そんなことはわかっている。だから、それはもう知っている。わかっている。聞きたいのはほかのことだ。もっと個人的なことだ。わたしがそれを聞けなかったということは、きっと、東京電力も政府も聞いていないだろう。東京電力も政府もそういう声があることを知るだろう。でも、たぶん、その声を聞くことはうまくできないんだと思う。自分に向けられた以外の声でも自分に効力をおよぼす、けれど、それを聞くか聞かないかはべつの問題だと思う。わたしが聞きたいのは、つまりとても個人的なことだった。なぜ、デモをするひとたちは「原発とめろ!」と声高に言いはしても、東京電力や首相官邸のまえで土下座をして「原発とめてください」と頼まないんだろう。たぶん、それは土下座をして頼んだら個人的なことになりかねないからだと思う。そして、きっとデモは非個人的な外面をしているんだと思う。わたしには、よくわからない。
 世界の未来についてわたしが漠然と考えることは、世界の時間が流れる速度を世界中で半減させてしまえばいいということだった。1時間のうちに1個しかつくれなかったものを2個つくれるようになった。工場制機械工業がそういうことだったとしたら、わたしたちが得たものはものであると同時に30分だったはずだ。新幹線や飛行機がわたしたちにあたえたものも時間だったはずだ。もうそんなものはいらないよとわたしは思う。エネルギーを使って時間をむりやりに進めて、どうしてわたしたちはそんなにすばやく生きたいんだろう。わたしたちはねずみじゃない。だから、ゆっくり生きて、ゆっくり死のうよ。もう、それでいいじゃないか。
 ベローチェでティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」を読みおえた。この小説のなかで、主人公が60年代にはじめた最初のアジテーションのキーワードは「爆弾は実在する」だった。そして、それから数十年たち、彼は家の庭に穴(シェルター)を掘り、彼を気狂いだと言う妻と娘を睡眠薬で眠らせそのなかに放りこむ。愛しているんだと何度も何度も言いながら。


 我々は核爆弾のある世界に産まれた最初の世代だった。(中略)一九六〇年の春には、どのコミュニティーも防空壕を作るべきだという考えに、人々の七十パーセントが賛成だった。一九六一年の秋には五十三パーセントが、五年以内に世界戦争が起こるだろうと考えていた。

 世界はメタファー中毒にかかっているね、と僕は思う。メタファーは我等が時代の阿片なのだ。誰も恐れない。誰も穴を掘らない。人々はリアリティーに音韻の衣を着せ、化粧を施し、それをお洒落な名前で呼ぶ。どうしてみんな穴を掘らないのだ? 核戦争。それは何かの象徴なんかではない。核戦争 ――と口にするのがそんなに恥ずかしいかい? それはあまりにも散文的すぎるかい? 直截的にすぎるかい? 聴けよ。――核戦争――そのごつごつとして耳障りで陳腐で日常的な音節を。僕は大声で叫んでやりたいと思う。核戦争!と。この世界における恐怖はどこに行ってしまったんだ? 大声で叫べ、核戦争!と。足をふんばって叫びつづけるのだ、核戦争!と。核戦争!
        ――ティム・オブライエン/ニュークリア・エイジ

 わたしが言えることはおおくない。彼が正気なのか、狂気なのか、そのことを決定することにたいして価値はない。それはひとりひとりがひきうける問題で、わたしが言うことじゃない。想像しようよ。わたしのいちばんたいせつなひとから「日本は放射能に汚染されたからこの国を捨てて海外に逃げようよ」とまじめに言われたとき、わたしがそれについてどう思うことができるのか。笑わないでいてあげることが、わたしにできるのか。被災地のひとが移住を余儀なくされそれについて考えるとき、わたしたちはそれを想像力だけで埋めあわせることができるのか。想像できなかったら? どうして想像できないんだろうか。そして、それを想像できないわたしはにんげんとしてくずじゃないのか?


 君が正常な人間なら、脅えというものを抱くはずだ。脅えを抱けば、穴を掘るはずだ。もし君が穴を掘れば、君は異常人間ということになる。
        ――ティム・オブライエン/ニュークリア・エイジ


 イメージフォーラムでダニエル・コックバーン「あなたはここにいる」を見た。なかなかおもしろかったけれど、最低の映画だった。このひとはたぶんインテリなんだと思う。「俺はこんなおもしろいことを考えているんだぜ」と言っているようにしか見えなかった。頭だけでつくっているように見えた。このひとの考えていることはおもしろいと思う。でもそこには愛がなかった。愛がない映画はどんなにおもしろくても、最低だ。わたしは愛だけしか信じない。




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