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局地的な世界の終わり

2011.05.16(22:47)

世界 [DVD]世界 [DVD]
(2006/07/28)
チャオ・タオ、チェン・タイシェン 他

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  5月15日(日)

 すごくがんばって早起きして、オーディトリウム渋谷でワン・ビン「鉄西区」を寝ながら見た。世界の終わりのような光景だった。タルコフスキー「サクリファイス」では物語の途中で世界が核戦争によって滅びてしまうけれど、核戦争なんてなくても、世界の終わりは世界の終わりとして局地的にやってくるんだと思う。仕事がないといってはトランプをして、煙草を吸って、シャワーを浴びるあの工場の労働者たちはまるで囚人のようだった。サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言い、それを受けメルロ=ポンティは「人間は意味の刑に処されている」と言った。でもここにいるひとたちはどんな自由にもどんな意味にも処されていないように見えるにもかかわらず、たとえば、ヴィターリー・カネフスキー「ぼくら、20世紀の子供たち」の刑務所のなかのひとびとよりも囚人に見えた。それはどういうことなんだろう。経済発展を著しく続けている中国という国にありながらなぜそこのひとびとはこぞって不幸そうな、救いのなさそうな顔をしているんだろう。ジャ・ジャンクー「世界」のなかでとりあげられた「世界公園」はなんだったんだろう。中国は牢獄じゃないんだろうか、そして中国を牢獄だと呼ぶことを否定できないのなら、日本という国を牢獄と呼ばないことを、わたしたちはうまくできるんだろうか。
 世界とは、ひとつの刑罰のことだ。
 以前、ジャ・ジャンクーの映画を見たとき「ドストエフスキーみたいだ」と思った。それは、たとえば各個人の問題があたかもロシア全土の問題と同じ位相で語られていたように、その映画のなかのしみったれたひとびとがあたかも中国の問題と同じ位相で語られているようにわたしに感じられたからだった。わたしは世界で起こっていることにとりわけ興味がない。だから、世界で起こっていることを世界で起こっていることとして語られたところでわたしにはその意味をわかることができない。わたしが愛おしく思うのは個人によって語られる世界で起こっていることだ。個人を愛することができなければ世界で起こっていることを愛せるはずなんてないと思う。それは、けれどたとえばゴダール「アワーミュージック」を見てテロリズムの感触をつかんだような錯覚を得たわたしの、岡田利規「三月の5日間」を読んでイラク戦争の感触をつかんだような錯覚を得たわたしの、×××なんだと思う。
 地震と原発については何度か書いた。思うのは、そこに国家というものがすっぽりぬけおちているということだと思う。地震と原発はわたしたちについてなんら当事者をあたえていないとわたしは思う。当事者が「がんばろう日本」なんて馬鹿まるだしのことを言うはずがない。「がんばろう日本」とだれかが言うたびにそのひとの国民が消えている。原発の問題を東京電力に押しつけているのは、問題を極私的なことに縮小させるだけにすぎないと思う。しかも、「極私的」というのは個人ですらない。「がんばろう日本」には手ざわりがない、「今回の事故は人災だ」には感触がない、ある種の問題をわかりやすい図式に還元していってどうなるんだろう。なにかを言うたびにそのひとの声が消えていく。消えていった声を聞きとるのはとても困難なのに、そして、こんなことを続けていたら声を聞きとることすらあきらめてしまうかもしれないのに。


 5月16日(月)

 会社にいった。8時まで残業をした。きっと、いろいろなことで絶え間なく死んでいるんだろうと思った。お昼を食べながら、HAくんが「ついに我慢できずにミキサー買っちゃった」と言った。「ミルつきのやつとミルつきじゃないやつで、ミルつきを買ったつもりだったけれど家帰ったらミルがなかった。どうりで安いと思った」と言っていた。「ミキサー片手にスーパーにいって、牛乳とバナナを買った。でもミキサー片手だとまわりのひとになに目的で牛乳とバナナを買っているかばれて恥ずかしいからラーメンとキムチも買った」と言っていた。うんでもばれるよとわたしは思った。どうしてこのひとたちはこんなにおもしろいんだろうと思った。世界ではいろいろなことが起こっているらしかった。JTがキャスターを廃止した。あとは、あとはとくになにも起こっていない。


 ねずみを苦しめてごらん
 そのために世界の半分は苦しむ

 ねずみに血を吐かしてごらん
 そのために世界の半分は血を吐く

 そのようにして
 一切のいきものをいじめてごらん
 そのために
 世界全体はふたつにさける

 ふたつにさける世界のために
 私はせめて億年のちの人々に向って話そう
 ねずみは苦しむものだと
 ねずみは血を吐くものなのだと

 一匹のねずみが愛されない限り
 世界の半分は
 愛されないのだと
                ――村上昭夫/ねずみ



 わたしが昨日ごきぶりを見てやっつけられなかったのは、このすばらしい詩がとつぜんわたしのこころのなかに降りそそぎ、ごきぶりを苦しめたら世界の半分が愛されないのだと気づいたからだった。決してごきぶりがこわくて手をだせなかったわけでも、高速でゴキジェットをとりにいっているあいだに逃げられたわけでも、ない。決して、ない。
 今年はみんなごきぶりをゴキブリジット・バルドーと呼んだらどうだろうか。ほら、あれがもしもブリジット・バルドーだったらいくら家にいても平気だろう。きみは。わたしは、次は殺す。世界の半分が愛されなくても、わたしの家のごきぶりが死滅すれば、それでいい。もうそれでいいじゃないか。
 ピース。




コメント
先日、小林多喜二を読みました。「集団のためには個人を殺さねばならない」という趣旨のことを地の文のパートにマルクス主義の文体で書いてありました。「あ、これが小林の可能性と限界なんだ」と思いました。
【2011/05/19 17:34】 | 上田洋一 #- | [edit]
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