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「DANCE to the Future 2011」@新国立劇場

2011.05.28(23:57)

ゴーリキー短篇集 (岩波文庫 赤 627-1)ゴーリキー短篇集 (岩波文庫 赤 627-1)
(1966/01/16)
ゴーリキー

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 5月27日(金)

 朝起きてなめくじを2匹倒した。冷蔵庫のうえに置いておいた髭剃りをもう20回めくらいになるけれど落としたら壊れた。しかたないので100円くらいのちゃちいやつで剃って、でも途中で飽きて、会社にいった。たぶんばれていない。TIちゃんが以前、「今日髭剃るのを忘れた」と言っていた。「まあカジュアルフライデーだから」と言っていた。金曜日はカジュアルだ。
 手こずっていた仕事が一段落したので、ようやく落ちつくことができそうでうれしい。帰って「ゴーリキー短篇集」などを読みながら寝た。


 5月28日(土)

 早起きして、顔面の下半身をワイルドに保ったまま電車に揺られて新宿のK's cinemaの「真! 韓国映画祭2011」でキム・ギドク「サマリア」、シン・ドンイル「ソウルのバングラデシュ人」、イ・サンウ「小さな池―1950年・ノグンリ虐殺事件―」を見た。
「サマリア」は以前見たときとまったく同じ感想を抱いた。ハン・ヨルムはかわいいけれど「弓」にはおよばない、そして、父親が娘にだけは決してなにも話そうとしないことについて。キム・ギドクの映画はわたしが見たかぎりほとんど会話がない。ひとびとはなにかをしゃべるけれど、話しかけられたひとは話しかけたひとをだいたいの場合において無視しているから、会話は発生していない。「サマリア」はほかの映画にくらべればまだ会話があるけれど、ハン・ヨルムが死んでからはイ・オルとクァク・チミンが中心になるのに、ふたりはほとんど会話をしない。イ・オルが殴ったり責めたりするのは相手の男だけで、クァク・チミンにはなにも言わない。けれど、わたしがわからないのはイ・オルがクァク・チミンになにかを話しかけていればイ・オルは相手の男を殺さずにすんだのかということだ。クァク・チミンはハン・ヨルムが寝た男ともう1度寝てお金を返しているだけだけれど、たとえばイ・オルがそれを知ったとしたらもっとまともなことになりえたんだろうか。なりえないと思わせるものがあり、それが映像なんだろう。
 シン・ドンイル「ソウルのバングラデシュ人」は今年見たなか映画のなかでもっともすばらしかった。デジタル上映で、画質もDVDなみ、おそらくわたしが映画館で見たなかでもっともひどい画質だったことはまちがいなく、おまけにタイトル(原題は「友達」?)もわたしがもっともつけるべきではないと思うもの(タイトルで映画の中身を説明してどうするんだろう)だけれど、それでも、すばらしかった。なにがすばらしかったと言われればなにもすばらしくはないような気もするけれど、とにかくペク・ジニのかわいさと胸きゅん度だけはまちがいなくすばらしかった。見ながらちょうにやにやしていた。
 イ・サンウ「小さな池―1950年・ノグンリ虐殺事件―」もおもしろかった。朝鮮戦争時、ちいさな村の避難民をアメリカ軍が無差別に虐殺した事件を映画化したもの。事件についてはとくに思うことはない。映像的にはキム・テギュン「クロッシング」と同じ感じで、ありえないほどの夕焼けをつくってしまうのはどういうことなんだろうと思う。タルコフスキーの水やエリセの光があれだけ美しいのはどうしてだろう。そしてタルコフスキー「鏡」の冒頭シーンで草が揺れただけで鳥肌がたったのはどうしてだろう。わからないけれど、そこにはありえた美しさがあったんだと思う。ありえない美しさというのは、ありえた美しさよりも美しくないんだろう。どちらも「ない」ということには変わりない。タルコフスキーやエリセのような光は勅使川原三郎や酒井幸菜がつくっている。それはありえない光だったんだろうか、ありえた光だったんだろうか、わたしは舞台のうえに発生したその光を見たはずなのに、そのたしかに見られた光がありえないということは、ありえるんだろうか。わたしにはわからない。わからないことだらけだ。線路のうえでいきなり虐殺されるシーンがすばらしかった。
 K's cinemaに置いてあったちらしに「2012年までにほぼすべての映画館にデジタル上映が完備される。今年は、映画をフィルムで見られる最後の年かもしれない」というようなことが書いてあった。それがほんとうかどうかはわからないけれど、げんにK's cinemaやユーロスペース、武蔵野館なんかでは1年まえまでデジタル上映なんかまったくやっていなかったと思うけれど、さいきんはほんとうにデジタル上映がおおい。そもそもなぜデジタルで上映するのかわたしはまったくわかっていない。コストの問題なんだろうか、そもそも最初から監督はデジタルカメラで撮影しているんだろうか。トリアー「アンチクライスト」、ゴダール「ソシアリスム」はたぶんもともとデジタルカメラで撮られているだろうからそういうのはいいと思う。そして、ゴダール「ソシアリスム」、あるいはヴィンセント・ムーン「花々の過失」のデジタルは美しいけれど、なにもかもがそういうわけではない。「ソウルのバングラデシュ人」はほんとうにひどかった。デジタル上映は画面を構成するひとつひとつのピクセルが見えて目ざわりだし、質感がフィルムにくらべてくっきりしすぎてけばけばしく、スクリーンにぴっちりはりついているような感じがしなくてどうしても好きになれない。でもそれは慣れの問題だと思う。わたしは音楽をレコードで聴いたことはほぼなく、レコードの音とCDの音のちがいを知らない。だからCDの音というのがわたしの知る音楽の音だ。そして、もしもこれからフィルムというものがすべてデジタルとして保存され、それらのものしか見ることができなくなり、タルコフスキーも、エリセも、ゴダールも、デジタルで見つづけていくようになったとき、わたしは、そのデジタルの映像をわたしの知るタルコフスキーだと認知していくんだろう。
 ゴダールは「子供たちにものを書いて表現させることを覚えさせるよりもさきにものを撮って表現させることを学ばせるのです。そういう方法もありえるのです」というようなことを言っていた。わたしはタルコフスキーのデジタル映像を映画館で見たことがないからそれらの差がいったいどういうものか知らない。ただし、わたしはカネフスキー「ひとりで生きる」ならデジタルとフィルムを両方見たことがある。デジタルではフィルムの白さに耐えきれなかったのか、パーヴェル・ナザーロフの顔が真っ白に染まっていて気持ちわるかった。タルコフスキーの撮ったフィルムが失われるということは、世界からひとつの映像が、ひとつの光景が、ひとつのものの見方が失われるということだ。そのようなものの見方がありえたということを知りえないという状態にすべてのにんげんがおかれるかもしれないということだ。そのせいで世界がどうなってもいいのか。この世界からフィルムが失われることで解決されるはずだったテロリズムが解決されるはずだった紛争が解決されなくなってしまっても、いいのか。フィルムが失われることでだれかは恋人を失うかもしれない、だれかは友達を失うかもしれない、だれかはほかのだれかを一生憎みつづけなければいけないかもしれない。それでいいのか。フィルムで上映しないというのはそういうことだ。わたしは映画なんてほとんど信じていないけれど、それでも、その程度には映画を信じている。
 新国立劇場まで歩いていき、「DANCE to the Future 2011」を見た。キルミ・ハルバート「Almond Blossoms」、石山雄三「QWERTY」、上島雪夫「ナット・キング・コール組曲」だった。
 キルミ・ハルバートを見てわたしのバレエを理解できない度を再確認しがっかりし、石山雄三を見て「いい!」と思って眠った。上島雪夫「ナット・キング・コール組曲」はすばらしかった。作品をつくるということは「なにをどう表現する」ということでしかなく、わたしはいちおう「なに」ではなく「どう」ということに重きを置いているつもりだけれど、「ナット・キング・コール組曲」を見て、「なに」に関心を持つべきじゃないかなと思いなおした。上島雪夫は「テニスの王子様」のミュージカルの演出をしているひとらしく、それらの観客がみんなコンテンポラリーダンスに興味を持ってくれればいいのにと、なんだか、そういうことをひさしぶりに思った。




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