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「Keith Jarrett Solo 2011」@Bunkamura オーチャードホール

2011.05.31(00:43)

The Koln ConcertThe Koln Concert
(1999/11/16)
Keith Jarrett

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 5月29日(日)

 池袋のテアトルダイヤが閉館だという話を聞きつけ、工藤進「マルドゥック・スクランブル 圧縮」を見にいった。
 絵柄は80年代、90年代テイストで、「攻殻機動隊」が好きなんだろうなとなんとなく思わせられる作品だった。SFで見られる近未来的都市というのはどうしてこうジャンク的なものととなりあわせなんだろう。にんげんが機械化されるという発想はもう古い、というか、SFがSFであるがゆえにそれは古いんだと思う。すでに、わたしたちがSF的に想像する未来というのは未来ではなく、過去に類似された未来でしかないと思う。たいていの近未来というのはすでに現在のわたしたちがつくりだしているものではなく、過去のわたしたちがつくりだしたものの夢でしかない。そして、彼らの持つ人格というのは現在のわたしたちが抱くことができる人格の極小的な部分にすぎないのはどうしてだろう。機械だから愛を知らないだとか、近未来だから海や土が輝きを放つとか、そんなはずはない。未来というのは可能性のことだ。そして、可能性というのはつねに現在にしかない。
 とってもいいところで終わってしまったので「にゃー」と思った。続きがとっても見たいけれど、とりわけ見たいわけでもないからきっと見にいかないだろうことも考えると、ますますざんねんだと思う。
「マルドゥック・スクランブル」に可能性と呼ばれるものがまるでなかったとしたら、宇木敦哉「センコロール」は可能性だけを描いたアニメのように見えた。とくにべたべたに塗られた建物、さけびともつぶやきとも呼ぶことができない微妙な感覚で交わされる会話がとりわけすばらしかった。唯一欠点があるとしたら、あんまりおもしろくないということだろう。いくらすばらしくてもおもしろくないものはあるし、いくらくずでもおもしろいものもあると思う。どうしてわたしたちはこんなにぐちゅぐちゅなんだろう。
 松屋でビビン丼を食べ、ビックカメラで髭剃りを買った。ポイントカードを忘れたと言ったらポイントと交換できる紙をくれた。でもよく考えたらわたしは最初からビックカメラのポイントカードなんか持っていなかった。
 Bunkamuraオーチャードホールで、キース・ジャレットのソロコンサートを聴いた。「ピアノで曲を奏でる」ということと「ピアノを弾く」ということはいったいどんなちがいがあるんだろう。わたしにはそのちがいがうまくわかることができないけれど、そのちがいがあるように思え、そのちがいがあるということを信じたいと思えたなら、それはどんなものよりも可能性なんだと思う。キースがピアノを弾きだすまえの1秒と、弾きだした瞬間の1秒はいったいなにがちがったんだろう。彼は中腰になり、うなり、ピアノの各部をぽてぽてとたたき、ピアノに水を飲ませようとしていた。いったい、あのひとはどういうものなんだろう。「ケルン」を、「ローザンヌ」を、「ブレーメン」を聴いていたらそれでいいと思う、もう、この世界にはそれ以上に美しい音楽はないかもしれなんだから。でも、それでもやっぱりわたしが見たキースはなんらかの総体だったんだと思う。総体でありえたならそれはそれだけで美しい。片面だらけの世界で、わずかちっぽけなピアノの一音が高く激しく響くなら、わたしはそれでいい。


 5月30日(月)

 会社にいった。お昼休みに知らないひとに電話をかけたら「排水口とクローゼットなおしてあげるよ!」と言われたので知らないひとはやさしかった。わたしの家はさいきん電気コンロが使えなくなってお湯を電子レンジでわかしているけれど、そういうものもなおしてくれるんだろうか。糸をひいて腐りかけたわたしのこころとかそういうものもなおしてくれるんだろうか。
 8時30分くらいまで残業した。7月のtabaccojuiceのチケットの払込と発券が9時までだったので焦っていたけれど、煙草を吸った。そうしたらセブンイレブンについたのが9時2分だったのでどきどきした。発券できた。よかった。
 日曜日からカフカ「城」を読みなおしていておもしろい。でも、カフカを読んでいてもいいことはひとつもないからゴダール「映画史」を読みはじめた。わたしが本に線をひきながら読んでいた時期に読んだ本だから線でいっぱいになっていて、だいたい、ぱらぱらめくっていると線がひかれていないところのほうがすくないんじゃないかと思う。これはそういう本だし、ということは、世界でいちばん美しい本だということだ。


 編集という側面は、ある意味では、あまりおおっぴらにすべきものじゃありません。なぜなら、これはきわめて強力ななにかだからです。事物と事物との間に関係をうち立て、それによって人々に、事物を、状況をはっきりと見させるなにかだからです。私が言いたいのは……妻を寝取られた男は、妻とその相手の男が一緒にいるところを見たことがなければ、つまり、妻の写真と相手の男の写真を手に入れ、それらを並べて見たりしたことがなければ、あるいはまた、相手の男の写真を見たあと、鏡で自分自身を見たりしたことがなければ、その浮気についてはなにも見なかったことになります。つねに二度見る(それによって二つのものの間に関係をうち立てる)必要があるのです…… これこそ……ただ単に(二つの映像を)結びつけるということこそ、私が編集と呼ぶものです。

 今では映画作家がほかの映画作家に向かって《俺はおまえの映画は好きじゃない》といったことを言うということがありません。あってもごくわずかなはずです。だれも、他人の作品について考えていることを、それをつくった当人に向かっては言おうとしないのです。母親が別の母親に向かって《あなたのお子さんはみっともない顔をしてるのね》と言ったりするのよりも少ないのです……

 かりにここにビデオ・カメラがあって、諸君のなかの一人が、質問する諸君とそれに答える私なり、質問する私とそれに答える諸君なりを、つまり、ここで進行していることのすべてを撮影するとすれば、その人は、「どういうフレームで撮るべきだろう? カメラをあそこに置いてみんなを一緒にフレームにおさめるべきだろうか、それとも、だれかのクロースアップとゴダールのクローズアップを撮るべきだろうか?」などと考えることになります。それに、それを決定するためには、自分はなにを求めているのかということを知らなければなりません。そしてその結果、その人は、フレームというのはどういうものなのかということについて、また、フレームというのはどういう役割を果たすのかということについて考えることになります。

 人々にわれわれの声に耳を傾けさせるということは、われわれにとって映画をつくるということでした。

 私にとっては、批評を書くということは映画をつくるということでした。だから、映画を撮ることができなくても、少しも悲しくなかったのです。ベッケルの映画を褒めるということは、ベッケルの映画をつくるということだったのです。

 私は昨日、ブライアン・デ・パルマの映画を見にいったのですが、人々はその映画を大いに楽しみ、ラストでは拍手喝采さえもしていました。私もまた満足し、それなりによくできた映画だと思いました。人々は(めずらしく、ごくまれなことに)自分が払った三、四ドルにみあうものを得ることができたのです。でも私は同時に、なにかぞっとするような思いも味わいました。というのも、その映画をつくった連中と観客の間にどんなコミュニケーションも成立していなかったからです。そこではコミュニケーションがひとつ成立していたと同時に、ひとつも成立していなかったのです。そこには、一方に、以前その映画をつくり、今はそこから数百キロ離れたところで別の映画をつくっている連中がいて、他方には、昼のあいだは映画をつくることとは別のことをしていて、夜になってその映画を見にきた人たちがいて、その間に、この二種類の人たちの出会いの場所としてのその映画があったわけですが、でもその場所はまた、駅のような場所、人々で混みあっていると同時にまったく人気のない場所でもあったのです。

 私は『勝手にしやがれ』を、――映画をつくるすべを知らなかったので――ほかの連中のやり方をまねてつくろうとしました。ところがしばらくすると、完全にパニック状態におちいっていました。あまりに書きすぎたからです。そこで私はある日、自分にこう言い聞かせました。《そう、もうこれ以上書かないようにしよう。今までに書いたものだけをもとにして撮ることにしよう。うまくいくかどうかはあとでわかるさ》というわけです。なぜなら、映画をあらかじめ書くというのは、完全に不可能なことだからです。私は、《どうもうまくいかない、いい考えがうかばない》などとつぶやきながら、まったく無駄なことで苦しんでいたわけです。紙と鉛筆だけをつかって、それらとは別のものをつかってつくられるはずのものを見つけるということは、明らかに不可能なことなのです。といっても、紙と鉛筆をつかうこと自体が間違っているわけじゃありません。今の映画のつくられ方のなかで間違っているのは、どの映画も事前につくられているという点です。私の考えでは、映画はある期間内にすべてのものがつくられるのではなく、そのうち一部分が事前に、一部分が事後につくられる方がいいのです。

 私に言わせれば、今の映画はどれも妖怪のようなものです。なぜなら、今の映画はどれも、まず書かれているからです。おまけに映画作家たちは、クレジット・タイトルに「だれそれによって書かれ、監督された」という言葉を記すことを高尚なことと思っています。でも実際は、連中は文盲なのです。自分は文盲だと主張する方がずっといいのです…… それにアントナン・アルトーは、《俺は文盲たちのために書いている》と言っています……

 人々はよく《表現の自由》という言葉を口にしますが、あれほどばかげていて信じられないものはありません。なぜなら、そんなものは存在しないからです。存在するのは、ひとを感化することの自由なのです…… 表現というのはだれもがすることです。ゲシュタポに拷問されているユダヤ人でさえ、表現することについては完全に自由です。そのユダヤ人には、自分が受けている拷問がどのようなやり方でなされているか[自分にどのような苦痛を与えているか]を表現する自由があるのです。それに対し、感化することについては――それは拷問をやめさせるための、また自分の表現を変えるための唯一の手段であるわけですが――自由ではないのです。

 私は今、人々とは違って、《感化すること》と《自分を表現すること》とを区別して考えはじめています。人々は、たとえば何人かの人がかわるがわる自分を表現すれば、それでコミュニケーションが成立すると考えています。でもひとは、音楽をもちいては、それほどコミュニケーションをはかることができません。音楽がきわめて大衆的なものであるのは、また音楽がかつてよりもずっと大衆的なものになってゆくのは、そのためです。中世には人々の間に、舞踏会を除いてはほとんど音楽がなく、あったとしてもフルートだけの音楽とか自然のなかの音楽といったものだったわけですが、その中世においては、人々や動物は今とはまったく違ったやり方で互いにコミュニケーションをはかっていたのです。人々は今ではコミュニケーションは大いになされていると考えていますが、実際はそうではありません。人々がほかの人たちと接触を持つ場所はどこかと言えば、交通機関です。でも飛行機や列車のなかなど、人々が集まる場所では、だれも互いに話しあおうとはしません。人々はただ、コミュニケーションの手段のなかにつめこまれているだけなのです。映画館のなかでも、人々は黙りこんでいます。スクリーンのうえでしゃべる人たちの言葉を聞いているだけです。映画館を出ても、自分の知らない隣人にあえてなにかを話しかけようとはしません。しかも人々は反対に、話しかけないことが表現することだと思いこんでいるのです。



 日曜日のキース・ジャレットが演奏を終えたとき、拍手が鳴りやまなかった。観客はみな立ちあがり、「私たちはあなたを愛している」、「私たちはあなたを必要としている」とさけんでいるひともいた。わたしではないだれかがわたしをふくんだかもしれないわたしたちとしてなにかを言っていた。キースは舞台の扉をでたり、はいったりし、「オーヴァー・ザ・レインボウ」をふくむ4、5回のアンコールをおこなった。しかしそれでも、わたしはなにかのひとつではないんだと思う。キースは総体だったとわたしは書いた。けれど、それは、あの舞台のうえでキースがたったひとりきりだったからだ。ひとはひとりきりのとき総体になれるんだろうとわたしは思う。わたしはだれにも話しかけなかった。だれもわたしには話しかけなかった。でももしもわたしのとなりにいたのがわたしの知らないひとではなくわたしの友達だったなら、わたしはキースについて、そのピアノについて、なにかを話したかもしれない。かりに音楽についてだれかがだれかに話しかけたとしたら、そのコミュニケーションと呼べるかもしれないものは、いったいどこにあるんだろう。そのコミュニケーションと呼べるかもしれないものが音楽の所有物でなかったとわたしたちは言えるんだろうか。そしてそれを言えなかったとき、わたしたちはわたしたちのありかたをきちんと愛することができるんだろうか。きっとわたしたちはなにかを奪うべきだ。けれど、わたしたちはだれかからなにかを奪われたことにだけはいつも気づくことができない。




コメント
しょうゆ豆県在住のためか(たぶん関係ない)、私はひいきにしている映画館の支配人(らしき人)に一言いってしまいます。たいていは「『悪魔を見た』なんて映画、日本人には作れませんよね」などと愚にもつかず根拠レスなこと口にして苦笑させるだけなのですが。

黒澤明は「映画は編集が命」と語っていたそうです。でも、全盛期に彼が監督した作品に非常に多くの人が「録音がひどい。セリフが聴き取れない」とブツブツ批判をしました(実際、「蜘蛛巣城」なんて三船が何言ってんだか私には分からなかったし)。
【2011/06/02 17:36】 | ぐっしい #- | [edit]
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