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目をそむけるために映画館へいく

2011.06.13(00:54)

城 (角川文庫)城 (角川文庫)
(1966/09)
フランツ・カフカ

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 6月10日(金)

 会社にいった。帰って寝た。


 6月11日(土)

 10時に眠って3時に起きたから、つまりわたしは17時間も眠りつづけたということだった。眠くなる成分がはいっている薬のちからを借りたとはいえ、にんげん、やる気になればなんでもできるなあと思ってほくほくしていた。
 なんだかよくわからないけれど飲み会だったので、とくとく渋谷にいって、なんだかよくわからないままに飲み会に参加していた。雪ノ下さんに「作品」のことを話した。作品というのはわけのわからないもので、だれもブログで書いていることを自分の作品と呼ばないけれど、電子書籍で出版されればそれがどんなものであれ作品と呼ばれてしまう、「わけのわからない作品と呼ばれるもの」がいつのまにか「べつのわけのわからない作品と呼ばれるもの」にかわり、けれど、それは「わけがわからないまま」にその変容に気づかれず、それについて僕はなんらかの思いを抱いていると。中世にはひとびとは音楽を聴いていなかった、それはCDやレコードというものがなかったからだけれど、CDやレコードが生まれるまえとあとでは「音楽と呼ばれるもの」の存在はきっとちがっていて、でもそれは音楽と呼ばれつづけているからちがいに気づいていない、というのと同じことだと思う。「70歳のおじいさんの話を聞いているみたいだ」と言われた。そうだろう、そうだろうとわたしは思った。でも電子書籍的場所に市場がうつりかわったときに電子書籍的な場所を認めそのなかでなにかをなそうということだけが若さというわけでもない。文学や芸術などの社会的な役割というのも同様だと思う。それらが少数の場所しか占めないというだけでそれらが社会的に無価値であるという考えがあるとしたらわたしはまったく理解できないし、「それらは社会のうえでこんなふうに役にたっている」と言語化されなければ無価値だと判断されてしまうようなやりかたもまったく理解できない。言葉であらわせるか、そうでないか、それは価値とはなんの関係もない。みんな言葉に頼りすぎていると思う。わたしは「この世界からフィルム上映というものがなくなったらやむはずだった紛争がやまない」と書いた。それははったりだけれど、そういうことがないともかぎらないじゃないか。この世界はわたしたちが思っているよりもずっとずっとばからしいよ。
 わたしが日記に書いたので聴いてみたら神聖かまってちゃんを好きになったと言ってくれた女のひとがいた。いいねいいねと思った。わたしが読んだ小説なんていっさつも読んでもらえなくていいから、わたしが好きな音楽は聴いてほしいし、わたしが好きな映画は見てほしい。それが音楽で、それが映画だと思う。帰りがぺん子さんといっしょになり、なぜかAKBを激しく推された。AKBにくわしくなりたいものだと思った。あとは知らないあいだにいろんなひとが無職になっていたのでびっくりした。
 戸田公園くらいでなぜか気持ちわるくなって降りた。死ぬかと思った。電車に乗っていることにうまく耐えられず、すこし乗ったら降りて休んで、をくりかえした。何本もの電車がわたしのまえをすぎさっていって、わたしは終電まであと何本の電車をやりすごすことができるだろうとばかり考えていた。帰れた。


 6月12日(日)

 起きて、納豆ごはんとチキンラーメンを食べていたら、おじいさんと女の子(推定イラク人)がやってきて、わたしの家の戸棚を開けて床をカッターでざしりざしりと切りとり、排水管を交換し、新しい床をはって帰っていった。あの神様みたいなひとたちはいったいだれだったんだろう…。
 ということで渋谷にいき、イメージフォーラムでヘルツォークの映画を見ようと思ったけれどまさかの満席で、しかたなくアップリンクまでいって中島情「シンクロニシティ」を見た。わからないと言えば、これほどわからない映画もなかった。まるで掃除をしている様子がないのにその家にほこりひとつないのがどうしてだかわたしにはついにわかることがなかった。そして、きっとこの監督はひとびとがどうやって話しているかなにも見ていないんだろうなとも思えた。男と女の子が部屋のなかでぽつりぽつりとそれっぽいことを話していれば映画になると思っているんだろうか。ゴダール「勝手にしやがれ」では男と女はしょっちゅうしゃべっていた。それは、きっと彼らにはしゃべることしかやることがなかったからだろうと思う。でも、「シンクロニシティ」の彼らはしゃべりもしないくせになにもしない。彼らにはやることがなにもないんだろうと思う。そして、やることがなにもないからしかたなく監督はカメラをまわすし、役者たちはカメラに撮られてぽつりぽつりとそれっぽいことをしゃべるしかなくなってしまう。それはとてもみじめでまずしいことだとわたしは思う。監督はきっとなにもおもしろいことを撮ろうと思っていないんだと思う。そして「おもしろいことを撮ろうとしないこと」が繊細なことだと思っているように見える。ばかげた話だと思う。この映画で唯一ありがたかったのは宮本一粋がとってもかわいかったことで、つまりそれは宮本一粋のぱんつがかわいかったということだ。でもざんねんながら宮本一粋のぱんつがうつっている場面なんかこの映画では1分くらいしかなく、あとの79分はひどくみじめだった。
 キングジムのひとがベホマをかけてくれたのでポメイラが回復し、るんるん気分でカフカを読んだり小説を書いたりしていた。タイトルはいつか変えるだろうけれど、いまは「いちばん新しい生首」という小説を書いている。「ファックマン」のあめだまちゃんとくっきーちゃんの話や「愛について僕たちが知らないすべてのこと」のユダヤ人の話は小説の部分としてしか存在されえない、とわたしは書いた。意識していたわけじゃないけれど、今日あらためて書いてみて「生首」はその問題を解決しようとしているようにわたしには見える。それは「小説の部分」を小説の全体として書こうとしているということ、言いかえれば、小説の部分と全体をまったく同じものとして書いていくということなのかもしれない。「生首」という小説がおもしろいものかどうかもうわたしにはわからないけれど、そういうことが起こってくれているのなら、わたしはすこしはわくわくどきどきできると思うよ。
 アップリンクで緒方貴臣「終わらない青」を見た。この映画のすばらしさについて語れることはほとんどないけれど、たとえば、わたしたちはときどきでいいから映画を見るためじゃなく、映画から目をそむけるために映画館にいってもいいんじゃないだろうか。そして、ときどきでいいからわたしたちはそれを誇るべきなんじゃないだろうか。わたしたちはきちんと映画から目をそむけることができましたと言えるようになるべきじゃないだろうか。いじめや浮浪者をたぶんわたしはうまく見ることができない。でもわたしはまたそれを見ないのと同じやりかたで「わたしは目をそむけました」とも言えない。きっと、「目をそむける」まえにそれを「見た」、「見てしまった」という事実があって、すくなくともわたしたちはその事実だけを思えるように「目をそむけた」と言うくらいのことはできるはずだと、思いたい。
 水井真希の歩きかたをわたしは見た。彼女は歩くことにすら怯えているように見えた。歩きかたひとつに重たさをここまでこめることができるのかと感動すらした。ぷっくり~む。




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