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栗山民也「蝶々夫人」@新国立劇場

2011.06.20(00:28)

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(2011/06/01)
若山富三郎、桜町弘子 他

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 6月16日(木)

 会社にいった。SSさんに「明日いっしょにおひる食べてください」と言われたので告白されたのかと思ったけれどまったくちがった。


 6月17日(金)

 足をひきずって会社にいった。


 6月18日(土)

 命がけで早起きして、新国立劇場で、栗山民也演出でプッチーニのオペラ「蝶々夫人」を見た。オペラを見るのは生まれてはじめてだったけれど、けっこうおもしろかった。冷静になって考えてみると、あらゆる台詞が歌で語られるというのはものすごいことじゃないかなと思った。彼らは名前を訊くためにすら歌わなければいけない。それはもうそれだけで悲劇的なことだろう。もしもかりにわたしがすべてのことについて歌うように語らなければいけないとしたら、生きていけないのかもしれない。それは、小説の終わりを意味しているからだ。いま小説があるのはオペラが現実にすっかり適応されていないからだということにすぎないと思った。すくなくともわたしたちはいまやっているようなしゃべりかたを継続しなければならない意味はなにもない。ゴダールは「子供に言葉を教えるまえにカメラを手わたしてみればいいのです。そうすれば子供たちは『おなかすいた』とは言わずにパンを撮るようになるのです」と言った。たとえばそういうことがありえるのなら、わたしたちは言葉を覚えるまえに歌を覚えることだってできるはずだ。そしてそういうことはありえるんだろう。でもわたしたちは成長するにつれ歌うこととしゃべることを区別して考えるようになってしまう。わたしたちは歌うとき決してなにかをしゃべらないし、しゃべるときには決してなにかを歌わない。だからわたしたちはいまもなお同じしゃべりかたをくりかえして、そして、同じしゃべりかたをくりかえしながら「なにも解決しない」と嘆いてばかりいる。同じしゃべりかたをしていれば同じことしかおこなわれないなんて明白なのに。
 オペラは2万円をこえてていて、今回わたしはアカデミックプランで5000円で見たんだけれど、5000円ならまた見たいと思う。5000円で見ることができる期間はあと4ヶ月しかないけど。
 K's cinemaで「レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー」という、捕鯨禁止で失業した鯨捕りの一家が鯨を見にやってきた観光客を虐殺するという、アイスランドのすてき映画を見ようと思っていたら前日で終わっていた(まさかー)。しかたなくユーロスペースでグラウベル・ローシャ「大地の歌」を見た。ものすごい映画だった。はじめのダンスシーンにうつっているにんげんの表情のすばらしさに見とれていた。にんげんがああいう顔をできるのかというよろこびもあるし、ああいう顔をしたにんげんたちがカメラにうつされているというよろこびもあった。たんじゅんに映像を見るよろこびというものがあって、もう、わたしはそういうものを知っているからそういうものしかうまく信用できない。映画の中身的にはなにひとつわからなかった。後半になると、同じ台詞がつねに3回くらいくりかえされるようになって見ているのもつらいくらいで、画面にうつっている金髪の男(マウリシオ・ド・バッレ?)になぜ2時間30分もつきあわなくてはいけないのかとこころがすりきれていくけれど、そういうことをさしひいても、この映画のなかにうつっているなんらかのちからというのはものすごいと思う。
 見おわったあと、マウリシオ・ド・バッレ?のうざさに毒されておさまりがつかず、しかたなくオーディトリウム渋谷で深田晃司「歓待」を見た。おもしろかった。作中の女のひとをどこかで見たことあるな、だれだろうなとずっと思っていて、はんぶんくらいで「あ、ともさかりえだ!」とひらめいたけれどもちろんちがった。杉野希妃だった。キム・ギドク「絶対の愛」にでていたらしいけれど覚えていない、つまり知らないひとだった。それで、わたしは杉野希妃なんだかものすごくこわくて、杉野希妃はこの日舞台挨拶できていて廊下ですれちがって、そのとき目があって、もうなんか殺されるんじゃないかと思った。
「歓待」という映画はとてもよくできた、とてもおもしろい映画だと思った。でも、ローシャを見たあとだからなおさらそう感じるのかもしれないけれどわたしにとっては映像を見るよろこびというものがまるで感じられなかった。ゴダール「ソシアリスム」で男の子を頭頂部を後ろからとらえたカットがあって、そこで、男の子の金髪がめっちゃくちゃな色になっていることをいま思いだしている。わたしが思う映像を見るよろこびというのはたとえばそういうことで、あるいはタルコフスキーやエリセの映画全編にみなぎっているということだ。松井周が「『歓待』は21世紀の映画だ」と言っていて、わたしもそう思うけれど、でも、21世紀に「映像を見るよろこび」というものを失わせて映画というものがしっかり成りたつようになっているのなら、それはどういうことなんだろう。「歓待」はおもしろかったけれど、きっとわたしは見たことすらすぐに忘れてしまうだろう。2度と見ることはないだろう。たとえば井口奈己「人のセックスを笑うな」にはぜったいになにかがうつっているはずだ。でも、「歓待」のなかにわたしにはそういうものを見つけることができなかった。杉野希妃にわたしは「この映画が今年の日本映画の最高傑作だと思われるようなものになりえますか」と訊きたかった。けれどわたしは訊けなかった。いつもいつも、訊けなかった。

 
 6月19日(日)

 ユーロスペースでクラウベル・ローシャ「黒い神と白い悪魔」、「アントニオ・ダス・モルテス」を見た。すごかった。もうとくになにも感想はないけれど、なんだかすごいものがいっぱいうつっていた。寝てばっかりいたけれど、それでもすごいものがいっぱいうつっていたはずだ。「エル・トポ」がもういっかい見たくなった。
 加藤泰「怪談 お岩の亡霊」も見た。ものすごくおもしろかった。でもずっと鼻唄うたっているひとがいた。なんだったんだろう。
 電車のなかでドストエフスキー「貧しき人びと」を読んで泣いた。ワーレンカはかわいさはいったいどういうものなんだろう。ドストエフスキーが偉大なのはおそらく彼の描く女の子がみんなびっくりするくらいかわいいからで、そして村上春樹のなかで「ノルウェイの森」と「ねじまき鳥クロニクル」を最高傑作にわたしがあげるのは、緑と笠原メイがびっくりするくらいかわいいからだろう。文学とはつまりかわいい女の子を描くということだと思う。




コメント
腕下げましたね。
いつぞやの頃より記事が全然おもんない。
【2011/06/26 16:33】 | 雅治 #- | [edit]
僕あなたのことなにも知らないんですけれど
僕をすべって見知ったようなうえから目線ぷりが
はんぱなくて すてきだと思います。
でも テレビに向けてしゃべっているひとじゃないんだから
せめて「いつぞや」がいつなのかくらい
めんどうくさがらずにしゃべったらどうですか。
たとえばなぜ原発の問題が解決しないのか
それはほとんどすべてのひとがめんどうくさがって
なにもしゃべりはしないからです。
ちなみに
僕もむかしの日記のほうがおもしろいと思いますが
公式には さいしんの日記のほうがおもしろいという設定です。
【2011/06/27 00:49】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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