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演劇集団円「未だ定まらず」@ステージ円

2011.06.30(23:49)

HarvestHarvest
(1994/06/16)
Neil Young

商品詳細を見る

 6月26日(日)

 午前中はプロジェクトマネージャ試験のマークシートに色を塗る予定だったけれど受験票を会社に忘れたせいですべてをあきらめた。
 お昼ごろに起きて電車に乗って、ぺん子さんと田原町駅で待ちあわせをして演劇集団円「未だ定まらず」(前田司郎作・演出)を見た。前田司郎ならなんでもおもしろいわけじゃないんだなと思った。つまらないわけじゃなくて、なんと言ったらいいのかよくわからないけれど、おもしろくはなかったと思う。前田司郎というひとはたぶんつまらないことをつまらないふうじゃないやりかたでやっているひとで、「生きているものはいないか」と「俺のお尻から優しい音楽」は特殊だったかもしれないけれど「迷子になるわ」というのはわたしの見たところそういうやりかたでわりとうまくいっていて、それにたいして「未だ定まらず」はうまくいっていない作品に見えた。たぶん、前田司郎自身も「未だ定まらず」をおもしろいとは思っていないだろうと思う。わたしはそのことじたいはかまわないと思う。こういうことをやっているその時点で、前田司郎はもう観客に謝ることはできないんだと思う。そして、謝れないことは前田司郎のせいじゃない。観客はそんなことではぜったいに許さないからだ。観客は許さないがゆえに観客なんだと思う。
 てこてこ歩いて浅草の雷門にいった。ぺん子さんが「おみくじひこうよ」と言うから「え、わざわざひどいことを言われたいなんて!」と思いながらもひいたらやっぱり凶で、とても紙っぺらとは思えないほどひどいことが書かれていた。彼女も凶だった。「ほらね」と思った。
 クリーム抹茶あんみつを食べながら旅行の話をした。「ゴーギャン好きだからタヒチいきたい」と言っていた。夢がひろがった。あとは家を買う話をした。そうしたら夢も希望もなくなった。家は買いたくないけれどだれかがくれるならほしい。
 ぺん子さんは帰っていって、わたしはまだまだ時間があったから渋谷までいってグラウベル・ローシャ「バラベント」を見た。ブラジルの黒人が「あー魚とれない」とえんえん言っているだけのすばらしい映画だったけれど、だいたい寝ていたのであまり覚えてなくてざんねんだった。まだまだまだ時間があったからシャブロル「不貞の女」を見た。はんぶんぼけたような映像もすばらしいけれど、もっとすばらしいのはわたしにとって監督がいったいなにを思ってこの映画を撮っているのかまったくわからなかったことだった。たとえばミシェル・ブーケが車のトランクが開かなくて焦っているシーンはほとんど冗談で笑っちゃうくらいなんだけれど、映像も監督もほとんど同じ温度を保っているように見える。この映画は全編にわたってびっくりするくらいの不穏さに満ちていて、たしかにその不穏さは不倫にあるけれど、そうじゃないなにかがあると思う。たとえばそれは相米慎二「台風クラブ」や大江健三郎「万延元年のフットボール」に似ていると思う。
 帰った。


 6月27日(月)

 会社にいった。帰った。ドトールで小説を書いたりラシーヌ「フェードル」を読んだりした。半魚人がうんちをもらしている場面を書いたところで会社の先輩のATさんがはいってきて「おー」という感じに口をあけていたので、あやうく辞表をだすところだった。


 6月28日(火)

 会社にいった。デヴィッド・ボウイ「アラジン・セイン」を聴いたけれど、ピアノがちょっと意味がわからなくてすてきだった。ドトールで小説を書いたような気がするけれどやっぱり覚えていない。


 6月29日(水)

 会社にいった。ボーナスがはいったので、SSくんが「おろして床にならべてみた」と言って写真をみせてくれた。お札がしきつめられていた。「これひとつが100万円だったとしたらと妄想してたのしんでいた」と言った。たのしそうだなあと思った。
 ドトールにいって小説を書いたような気がするけれどちょっと覚えていない。ニール・ヤング「ハーヴェスト」を聴いた。「ア・マン・ニーズ・ア・メイド」、「ハート・オブ・ゴールド」はなにをどう聴いても大好きだと思った。どうしてわたしはニール・ヤングじゃないんだろう。デヴィッド・ボウイ「ジギー・スターダスト」もすごくひさしぶりに聴いた。「スターマン」もいいけれど、「ムーンエイジ・デイドリーム」もすばらしいと思う。「ジギー・スターダスト」はクイーン「オペラ座の夜」と同じですべていいんだけれど。
 音楽の名前について日記でどう表記しようかずっとまよってきたし、これからもずっとまよっていくんだと思う。だからもうしかたなく基本的にはカタカナで書いていくことに決めた。そのうちなれるだろうと思う。でもなれなかったらまた書かないかもしれない。英語で書かないのは、たとえばマイク・オールドフィールド「オマドーン」をMike Oldfield"Ommadawn"とどうしても書けないからだと思う。わたしは「」に対応する英語的な記号はないと思う。Mike Oldfield/Ommadawnと書けばいいのかもしれないけれど、それは、文章のなかにいれるべきものじゃないと思う。
 いま書いている小説(「生首」)はほんとうにてきとうに書いているけれど、てきとうに書くというのはどういうことなんだろう。「物語をじっくり練って書く」ということについてわたしは魅力を感じていない。ものをつくるひとは相手になにかを伝えたかったりなにかを感じさせたかったりするとき「作品」をつくるけれど、それはほんとうにまっとうなことなんだろうか。物語をじっくり練って、つまりいろいろな準備をしてからものを書きはじめるということは、頭のなかにあるものを作品へと変えていくのに時間をかけていくということだと思う。物語をじっくり練るとか、練らないというのは、けっきょくのところ頭のなかに生まれたものが作品へと結晶させるための時間について言っているにすぎない。時間差についてわたしたちはどれほど価値をおけばいいんだろう。ゴダールは「アインシュタインの偉大な発見がひとびとに認知されるのに長い時間がかかったのは、アインシュタインがそれを見たあとそのことについて文章にしたからなのです」と言った。吉本隆明は「カール・マルクス」のなかで「ある物品が価値をもつのは、そのなかに抽象的な、人間の労働が対象化されているからである。その価値の大小はそれにふくまれている労働の分量によってはかられ、労働の分量は労働時間を尺度にしてきめられる」と言っている。マルクスは「物品の価値に労働の質なんて関係ないよ」と言ったらしいけれど、彼らの語る時間とはいったいなんなんだろう。かりに、頭のなかに発生したあるものが外部の作品と呼ばれるものに結晶する時間がゼロであることができたなら、そこで起こったいちれんのできごとから消えているのは時間ではなく作品だと思う。そして、おそらくわたしたちは作品を消失させるために作品を書いていて、それは「カール・マルクス」のなかで語られる資本の本性とどこか似ている気がする。「価値が剰余価値としての自己自身から、自己を区別し、しかも価値プラス剰余価値がふたたび価値としてあらわれる自己運動の過程をどこまでもくりかえすことである。これを資本の本性とかんがえることができる。/しかし、価値がみずから剰余価値として自己価値と区別し対立するという手品をやってのけるばあいには、どうしてもいっぽうに、つまりこの過程の外に、使用価値そのものが価値の源泉であるという特殊な商品が、なければならないはずである。なぜならば、価値が使用価値そのものであるものでなければ、他方で価値が自己増殖的に価値であるというような内部性をもちうるはずがないからである。この使用価値そのものが価値の源泉であるような特殊な商品が労働力である。そして労働力は労働者の内部にあり、おなじように自己再生する」。作品の発生から結晶までの時間がゼロならばわたしはもう作品を必要としないと思う。そしてわたしはそれならそれでいいと思う。でもその時間がゼロにならないのならわたしたちは「特殊な商品的なもの」をなんらかのかたちで持ちつづけなくてはならないだろうし、だとしたら、わたしが思う労働者のむなしさも、作品のむなしさも、「特殊な商品的なもの」に由来しているように見える。


 6月30日(木)

 会社にいった。
 帰りにドトールにいってCKさんと話した。いっぱいなにかを話したけれどなにを話してのかまったく覚えていないからびっくりした。




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