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サンプル「ゲヘナにて」@三鷹市芸術文化センター

2011.07.05(00:27)

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 7月1日(金)

 7月1日の金曜日だった。会社にいった。同期との飲み会で、CKさんとSSさんと、HAくんといった。あいもかわらずSSさんがすばらしく、だれが見ても熱いポテトをふつうに食べていたから「熱くない?」と訊いたら「熱いよ! 言ってよ!」と怒られた。HAくんは店員とまちがえて壁に話しかけていた。すごすぎる。


 7月2日(土)

 三鷹市芸術文化センターでサンプル「ゲヘナにて」を見た。舞台美術がとにかくきれいでほええってなった。たぶん舞台はそこに展開される空間を見せるもので、そこになにを配置し、そこに配置されたにんげんをどう動かすか、というものでありえて、だから、タルコフスキー「ノスタルジア」でエルランド・ヨセフソンが演説しているときに階段にたっているひとびとをうつした場面は舞台だと思う。五反田団「生きているものはいないのか」はひとがただ死んでいくだけの演劇で、後半になると舞台はおそらく十数人の死体で埋めつくされて、そのなかで生きのこった女の子は男の首を締めていた。たとえばそういうことがほんとうに可能になるのはその死体が、死体役の役者たちが「配置されたもの」として、人物ではなく空間としてなりたっていたからだと思う。そして、そういうことが可能な場所をわたしは舞台と呼びたい。それができていない場所はどんなに役者がたっていてもただの木でできたおおきな台でしかないと思う。
 それで、わたしは野津あおいを見にいったようなものだけれど、彼女はなんなんだろう。太宰治を演じた古館寛治も、深田晃司「歓待」でまったく同じしゃべりかたをしていたにもかかわらずすばらしいと思うけれどおじさんにはほとんど興味がなく、やっぱり野津あおいだ。野津あおいのしゃべりかた、というか、野津あおいがしゃべるためにそこに横たわっていなくてはいけない「現実」というものはなんなんだろう。それは、たとえば五反田の宮部純子もやっていることだと思う。わたしから見ると、演劇でしゃべるために現実を必要としているひとはほとんどいない。ほとんどあらゆる演劇において現実は必要とされていない。けれど、野津あおいはあきらかにしゃべるたびに現実をひきよせているように見える。彼女がしゃべるためにはおそらくそこには現実がという力場のような必要で、彼女のしゃべりかたはその現実との反響なんだと思う。好き。
 演劇の内容としてはカタルシスがたりないということ以外にとくに言いたいことはない。おもしろかったからサンプルはまた見にいきたい。
 早稲田松竹までいき、ファティ・アキン「ソウル・キッチン」とケン・ローチ「エリックを探して」を見た。「ソウル・キッチン」を見て、わたしは村上春樹がティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」について語っていたことを思いだした。「僕はこの小説にでてくるどの人物にも感情移入できないが、この小説にでてくるどの人物も好きだ」。映画にうつっているひとびとをどれほど好きになれるかを映画の価値を決める尺度だとすれば、わたしは、この映画を今年のいちばんにあげたい。ビロル・ユーネルはわたしが見たひとのなかでいちばんかっこうよかったし、アンナ・ベデルケもわたしが見た女のひとのなかでいちばん美しかった。見ているあいだ、ずっとしあわせな、とてもたんじゅんなしあわせな気持ちが継続する映画が、いったいどれほどあるだろう。
 ケン・ローチ「エリックを探して」はとくに感想はなくおもしろかった。ギャングに脅迫されたときどうきりぬければいいかわかったのでそれはおとくだった。


 7月3日(日)

 カート・ヴォネガット「ジェイルバード」を読みながら渋谷へいった。プロローグが終わり、50ページあたりで「ジェイルバード」のタイトルがばばーんとはいったときのかっこうよさで、とりはだがたった。文学史なんてたんじゅんだと思う。ドストエフスキーが女の子を描き、カフカが現実を描き、ヴォネガットがやさしさを描いた。ただそれだけのことだ。
 イメージフォーラムでロベール・ブレッソン「スリ」、「ラルジャン」を見た。「スリ」についてはとくに感想はないけれど、「ラルジャン」が頭がおかしい。「たぶん悪魔が」を見たときもいったいなんなんだろうと思ったけれど「ラルジャン」みたいな映画はいったいなんなんだろう。こういう映画にくらべたらパラジャーノフもゴダールもずっとわかりやすいと思う。ほかにてきとうな言葉が浮かばないので使ってしまうけれど、たとえば「前衛」とか「シュール・レアリスム」とか、そういうことはけっきょくのところそうやって名前がつき、分類されることでわたしはたやすく「そういうものか」と思ってしまい、そういうものである以上、もう決定的に「???」となることはないと思う。ほんとうにわからないのはたとえばロメール「我が至上の愛 アストレとセラドン」や、ブレッソン「ラルジャン」だと思う。こういう映画についてうまい形容が浮かばない。昨日、わたしは「『ラルジャン』はカフカ以降もっとも文学的な文学だ」と書いたけれど、それはたとえば形容詞だろうか。ゴダールは「映画は形容詞では語れない」と言った。けれどそれでも、「ラルジャン」の終盤、ランプの光が暗闇を照らす場面のあの色、あの色ほど美しい色を、わたしは25年も生きてきてほとんど見たことがない。わたしはとてもまずしいんだろう。


 7月4日(月)

 会社にいった。ルソー「不平等起源論」などを読んだ。不平等の起源を探るには「自然」というものを考えなければいけないそうだ。ふーんと思った。それにしても、やたらあちこちででてくる「自然」という概念をわたしはいったいいつになったらすこしでも理解できるんだろう。
 パスタをゆでたあとにレトルトのソースがないことに気づいて、キーマカレーをかけて食べた。おいしかった。




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