スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展@国立新美術館

2011.07.11(02:22)

書を捨てよ町へ出よう 【低価格再発売】 [DVD]書を捨てよ町へ出よう 【低価格再発売】 [DVD]
(2008/04/23)
佐々木英明、平泉征 他

商品詳細を見る

 7月7日(木)

 七夕だけれど会社にいった。
 ドトールへいって「村上昭夫詩集」を読みおわった。 
 今日はうちの姉の誕生日らしい。おめでとうと思った。でも言わない。


 7月8日(金)

 会社にいった。


 7月9日(土)

 朝10時に起きた。どうも動く気力がなくて、けれど動かないわけにもいかず、髪を切りにいった。それから、六本木の国立新美術館までいった。途中で外国人の女のひとに道を訊かれた。「麻布十番商店街ってどこにあるの?」。でもわたしは六本木なんて駅から新美術館までの道しか知らないからよくわからなくて、しかたなく地図を見て「国立新美術館がこっちだからあっちですよ!」と教えてあげたら「ぜったい?」と訊かれた。「わたしたちずっとちょうまよっているんだからね!」的なことをたぶん言われて、わたしはしかたなくにこにこして「ごめんなさい」と言った。女のひともにこにこしてわたしが教えたほうとは真逆の方向に歩いていった。ああと思った。たぶんあってるのに。
「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見た。ひとがいっぱいいたのでうへえとなった。美術館というのはこの世界でいちばんきれいなものたちが見られる場所だからどうしてひとびとはそういう場所へいかないのかわたしにはちっともわからないからわたしはひとびとにぜひいってほしいと思っているけれど、わたしがいく日にかぎってはいかないでほしい。作品数はすくないものの、そのぶんスペースをいっぱいにとってひとつひとつの作品をじっくりと見せてくれる感じだった。最初にうなったのはマネ「オペラ座の仮面舞踏会」で、もうやはり黒がすごかった。わたしはマネについては「黒!」という印象しかないけれど、やっぱり黒がすごかった。マネ以上の黒なんてこの世界にはないと思う。あとはモネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」がほんとうにすばらしい。すばらしすぎて言うことはない。ルノワール「ポン・ヌフ、パリ」、メアリー・カサット「青いひじ掛け椅子の少女」、エヴァ・ゴンザレス「家庭教師と子供」もよかった。びっくりしたのはセザンヌで、わたしはいままでずっと「セザンヌなんてかすだよ」とこっそり思って生きてきたけれど、「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」、「赤いチョッキの少年」を見て思いが変わった。なんでそんなふうにぐりぐりーって絵の具塗っちゃうの!?と思ってびっくりした。かすじゃなかった! ごめんね! あとはスーラだけれど、わたしは点描画の作品がきらいすぎてちょっとよくわからなかった。
 ベローチェで小説を書いたりしたあと、シネマヴェーラで若松孝二「聖母観音大菩薩」、寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」を見た。「聖母観音大菩薩」はぜんぜん意味がわからなかった。ポルノなのかどうかわからなかった。わたしはポルノだと思ったけれどそうじゃないのかもしれないオーラがあった。けっきょくのところぜんぜん好きじゃないけれど、「いったいなんなんだ?」と思わせるものがって、「なんなんだ?」と思わせる威力というのは、ある意味わかりやすい寺山修司の映画や「追悼のざわめき」や「薔薇の葬列」、あるいはローシャの映画よりもずっとうえかもしれない。だって、こんなもの芸術じゃないから。つまり、わたしはけっきょくのところ芸術と呼ばれるものを芸術的に受けとめることしかできない、まずしいにんげんだと思った。
 寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」は今年のいちばんだと思う。音楽、映像、台詞まわし、思想、そういうものが一体となってうねっていく感覚がほかの映画とくらべてレベルがちがう。一般的に「前衛」と呼ばれるだろうものがきちんと成功するとこういうことになるのかとびっくりした。2時間30分ほどの映画で、終盤はやや冗長になってしまうけれど、見ているあいだ、たのしくてたのしくてしかたなかった。この映画にいちばん似ているものは、わたしはゴダール「ソシアリスム」だと思う。あるいは庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」だと思う。わたしがずっと思っていることがあって、それはたとえばどうしたら「ヱヴァ:破」を見ているひとに寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」を」見てもらえるだろうということだと思う。「エヴァ」にあるものと「書を捨てよ~」にあるもの、その根底のところはわたしの感覚では似ていて、それは「映画館にきてこんな映画見ているおまえらは気持ちわるいよ」ということだと思う。「書を捨てよ~」の冒頭で主人公を演じる佐々木英明は「スクリーンのなかにはなんにもないよ」と言い、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君に」では監督は映画を見にきていた観客をうつしていた。これは同じことだと思う。わたしはどうしようもなく気持ちわるいと思う。それは、なんというか、夏になれば海にいったり、お祭りにいったり、花火を見たり、ほんらいやるべき美しいことをまるでやらずに暗い映画館のなかに閉じこもっているということによっていて、しかも、わたしは「書を捨てよ~」や「エヴァ」をほんとうに理解しているのはほとんどわたしだけだと思っていると思う。わたしのなかに気持ちわるさがあって、それは、たとえば「書を捨てよ~」や「エヴァ」によって増殖されていく。「書を捨てよ~」だけじゃない、けっきょくのところマネやルノワールだってそういうふうにしかわたしのなかでは利用されていない。それらはどこまでいってもポルノとしてしか活用されていない。ちがいは性欲を刺激するか、自尊心を刺激するかのちがいでしかない。そして、それは刺激する対象がちがうだけでやっていることは変わらない。だから、同じものだと思う。ゴダールは「ほとんどの映画は同じものです。しゃべっている言葉がちがったり題名がちがったりしますが、それらはみな同じものなのです」と言っているけれど、けっきょくはそういうことなんだと思う。エロ動画もルノワールもわたしにとって同じだ。
 わたしは美しくなりたいと思う。けれどおかしいのは「美しくなりたい」と思っていることで、それは、わたしが他人にわたしにたいする別名を強要しているにすぎないということだと思う。くだらないうえに、みにくい。
「文藝」が綿矢りさを特集しているので「かーわいい」と思い買おうとしたけれど、わたしは買った雑誌を読んだことが考えればないので買わなかった。しかたなく「ハンターハンター」の新刊を買って電車のなかで読んで、帰ってからもっぺん読んで寝た。


 7月10日(日)

 シネマヴェーラにいこうと思ったけれどめんどうくさくなって「ハンターハンター」を読んでは寝た。この2日で5回は読んだと思う。気がつけば夜の9時くらいで、ロイヤルホストにいっていまこの日記を書いている。書きおえたらまたこりずに小説を書くだろう。くだらない小説、わたしだけがおもしろいと思う小説だ。
 リア充ごっこがしたいなあとおもむろに思った。夏なんだから、泳がない海にいきたいし、なにも買わない夏祭りにいきたいし、なにもみない花火大会にいきたいなあ。にゃあにゃあ。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/954-80fa3400
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。