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たったひとりの未開人

2011.07.18(01:48)

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)
(2000/01)
秋山 瑞人

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 7月11日(月)

 会社にいった。


 7月12日(火)

 会社にいった。


 7月13日(水)

 会社にいった。


 7月14日(木)

 会社にいった。


 7月15日(金)

 会社にいった。


 7月16日(土)

 映画を見にいこうかなと思ったけれど、起きたら3時すぎで、レイトショーで「コクリコ坂から」を見にいこうかと思ったけれど、頭も痛くて、なんとなくお酒を飲みだしたら悪化して、ぜんぶいやになってそれもやめて、秋山瑞人「イリヤの空、UFOの夏」をずっと読んでいた。さいきんは、ひさしぶりに秋山瑞人の小説を読んでいて、「猫の地球儀」も読んだ。もうぼろぼろ泣いた。もうたぶんこの小説以上に泣ける小説なんてないだろうと思う。さいこうだと思う。


 7月17日(日)

 朝起きて、図書館まで岡田利規「エンジョイ・アワー・フリータイム」を弁償しにいって、それから渋谷までいった。ユーロスペースでヤスミン・アフマド「細い目」を見た。「ムアラフ」や「タレンタイム」のほうがわたしは好きだけれど、画面からおさえようもなくにじみでてくるやさしさがたとえようもなく美しくて、好きだった。「グブラ」も見ようかと思ったけれどやめて、シネマヴェーラで橋浦方人「海潮音」と岡本喜八「吶喊」を見た。「海潮音」はなにがおもしろいのかさっぱりわからなかったけれど、「吶喊」がおもしろすぎて意味がわからなかった。時代劇のくせにジャズ(だとわたしは思う)が響き、カメラはぐらんぐらん揺れ、役者たちは感情いっぱいにたちまわっていた。そこにひろがっている軽快さというのはもうほとんど奇跡だと思っていいと思う。目と耳がじゃぶじゃぶ洗われるようだった。あと、お糸役の伊佐山ひろ子がものすごーくかわいかった。
 ルソーは「人間不平等起源論」のなかで、「哲学者たちはにんげん一般に通じる普遍的なものをうちたてようとしているが、彼らが観察し、論じている『にんげん』とはヨーロッパ人のことである」というようなことを言っている。わたしが「会社」と言うときの会社は「わたしの会社」のことで、わたしが「映画」と言うときの映画は「わたしの映画」にほかならないと思う。そこにいるみにくさのことをさておいて、たとえば、わたしは「どうしてわたしがすばらしいと思う映画をほかのひとは見てくれないんだろう」と思う。そのさみしさを思う。わたしが考えているのはわたしがどういうにんげんになりたいかと思うかということで、さいきん、とくにわたしはろくな小説を書けやしないと思いはじめているから、それは、そういったことと対応していると思う。たんじゅんに、わたしがまともな小説を書けるようになるまで何冊の本を読めばいいんだろう。わたしは、わたしの小説がたとえばきみに届くようにするためにあと何万ページをめくり、あと何千枚書けばいい? そういうことがぴたりとわかれば、わたしはまじめに会社と向きあえるかもしれない、会社をお金儲けのくだらない手段だとわりきって好きな映画や本をたらたら読んで「これがおもしろいよ」とみにくくないやりかたでおもしろいものをすすめることができるかもしれない。でも、そういうのはいったいどういうことなんだろう。どうしてわたしは「あー今日も1枚も書けなかったーがっくりー」と思ったり「あー今日は1本も映画見れなかったーがっくりー」とか思って生きなくちゃならないんだろう。そんなくだらない生きかたってあるのかな。そういうことをくりかえしてばっかりでもうすぐ26歳になって、そしてすぐに30歳になって、後悔ばっかりして、すごくみじめに決まっていると思う。そういうことをしている時間があったら、たとえば好きな女の子がもしもいればその子への贈りものを買いにいったりとか、そういうことをしたっていいはずなのに。どうしてこういうことになってしまい、そして、どうしてこころのそこではそれを必死に肯定しなければならないんだろう。くだらなすぎてへどがでちゃうな。へどへどだな。こじこじ。
「好きなマレーシアの映画監督は?」
「好きなエチオピアの映画監督は?」
「好きなブラジルの映画監督は?」
 そう訊かれて答えられるひとなんてたぶんほとんどいないだろうし、もちろんわたしも答えられない。マレーシアならヤスミン・アフマドだしブラジルならローシャだけれど、考えるまでもなくその国で知っている映画監督なんてそのひとひとりなんだから、そう答えるしかない。日本という国はそういう国で、これが、たとえばどういう状態かほかの国の映画事情を知らないわたしにはよくわからない。わたしは今日見たヤスミン・アフマドの映画が、岡本喜八の映画が、そこらへんのシネマコンプレックスで上映されている映画の100倍くらいはおもしろいだろうとほんとうに信じている。いまわたしがぼんやり思っているのは、たとえばわたしが絶賛したカネフスキーを、寺山修司を、何人のひとがいたたまれなくなって見にいってくれただろうということだと思う。そして、見にいかなかったことを何人のひとがいたたまれなく思ってくれただろう。ひとりだろうか、ふたりだろう、さんにんだろうか。そう数えることになんらかの価値があるのか、わたしにはわからないけれど、そこにある100倍の差異に、わたし以外のひとが、どう耐えているのか、わたしはわからないままだと思う。
 ルソーはこう書いている。


 三十年ばかり前にイギリスの宮廷につれてこられた幾人かの北アメリカ人のなかの一人の酋長の話を思いだす。人々はなにか彼の気に入るような贈り物をしようと、彼の目の前へいろいろなものをさし出してみたが、彼の心をひいたらしいものはなにもなかった。われわれの武器は彼には重くて不便なように思われ、われわれの靴は彼の足を傷つけ、われわれの服は彼には窮屈であって、彼はすべてをはねつけた。最後に人々は、彼が、一枚の毛布を取って、それで肩を包んでよろこんでいるらしいことに気づいた。「少なくともあなたはこの品物が役に立つことは認めるでしょうね?」とすぐに人々が彼に言った。――「はい」と彼は答えた。「これはけものの皮とほとんど同じぐらいに良さそうに思えます。」


 この話のなかのイギリス人がわたしで、北アメリカ人の酋長があんただ。




コメント
すだち王国の人間は豆腐にも焼き魚にもすだちをかけるという、水戸黄門の兄ちゃんのお墓近くに住むうどん人としては、ヤスミン・アフマドの「ムアラフ」と「タレンタイム」を観ている方がいるということ自体めっちゃうらやましいです。しょうゆ豆公国では3,4年前に「細い目」の上映会がありましたが、その映画館が「釣りバカ日誌ファイナル」を最後にぶっつぶれたので、私はいまだに「ムアラフ」も「タレンタイム」も観てません。ああ、うらやましい。

「細い目」は90年代香港映画のノリもありましたよね?
【2011/07/28 17:37】 | ぐっしい #- | [edit]
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