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プレミアム・ミーツ・プレミアム2011 さかいゆう「"さかいの湯" Vol.1 with 小谷美紗子」@浜離宮朝日ホール

2011.08.12(01:14)

丹下左膳 餘話 百萬両の壺 [DVD]丹下左膳 餘話 百萬両の壺 [DVD]
(2011/02/14)
大河内傳次郎、喜代三 他

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 8月5日(金)

 会社にいった。YNくんが3ヶ月間中国にいくというので、おわかれの会をした。あいかわらずSSくんがすばらしいなと思った。帰り道がYNくんといっしょになった。「(人生が)たのしい?」と訊かれた。「たのしいよ」とわたしは答えて、わたしの家はYNくんの家まで30秒くらいだから、YNくんは「僕の家が燃えていたらよろしくね」と言っていた。「うん」とわたしは言って笑っていた。


 8月6日(土)

 会社にいくときと同じくらい早起きをして、新文芸坐で山中貞雄「人情紙風船」、「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」を見た。わたしは「人情紙風船」のほうが好きで、とくに中村翫右衛門が演じる新三がかっこうよくてかっこうよくて(「傘を返しておいてくれよ…」)好きだった。「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」についても、わたしは、この映画はすくなくとも30年はさきをいっているように思う。ものごとがあまりにもゆたかに描かれていてこわいくらいだ。ふつうの作品というのは30年は遅れているんだと思う。30年遅れて、やっとふつうの作品となるんだろう。「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」のゆたかさは、きっと、サイレントが持っていたはずのゆたかさだと思う。ヌーヴェルヴァーグの時代、監督たちが獲得しようとしたゆたかさはたとえばゴダール「気狂いピエロ」を見てわたしが感じる虚無のうらがえしにすぎないと思う。30年というのは、きっとゆたかさをすりへらすにはじゅうぶんな時間だったんだと思う。
 TNと新宿で待ちあわせをして、ごはんを食べた。てんぷらを食べて、会社の話や長野の話をした。「会社だから理不尽であたりまえだ」とか、「仕事だから○○されることにもがまんしなくちゃいけない」とか、「飲み会も仕事だよ」とか、たとえばそういうことを言うひともなかにはいて、わたしは、そういうひとは頭がおかしいんじゃないかなと思う。あんたが理不尽にされたことによってあんたが理不尽になったとしたら、それはあんたが醜いからだよ。
「対象」と「行為」があるはずだと思う。「わたしは悪をなす」と「わたしを正義をなす」ということはなにも変わらないと思う。「これこそがロックだ」と言うひとをまずしいと思う。以前、友川カズキのライブにいったとき「これは芸術なんだからさ、売れなくてもいいんだよ」と言っているひとがいた。想像だけれど、「これは芸術なんだから売れなくてもいいんだよ」と言っているひとは会社にいけば「これは仕事なんだから理不尽なんだよ」と言うように思う。芸術も仕事も、同じやりかたでしかやれないとしたら、その対象がちがったとしても、それは同じことにすぎないと思う。
 新宿をぶらぶらして、銀座をぶらぶらした。「かき氷が食べたい」と思って、店員さんがみんな和服の場違いな喫茶店にはいり、1300円くらいのおおきなかき氷を食べた。抹茶だった。寒かった。味も麻痺して、いまだのこりつづける氷の山と闘争をして、せきこんでいた。
 築地の朝日新聞社にある浜離宮朝日ホールで小谷美紗子のコンサートだった。とてもひさしぶりに小谷美紗子を聴いて、「あれ、こんなに歌がうまかったっけ」と思った。やわらかな声の隙間にちからづよさがはいりこんで、わたしはとても好きだと思った。小谷美紗子の声はときどき楽器に、音楽であることに耐えられていないように思う。あるいは、そのために彼女は英語を多用しているんじゃないだろうかと思う。けれど、かりに小谷美紗子に音楽と呼ばれるものがあるとすれば、それは、その耐えらなさと、そこからはかなくしょうじるちからづよさだろうと思う。
 新橋の近くでTNと飲んだ。「YUKIのライブにいきたい!」とTNはしきりに言っていて、「まったくだ!」と思った。たのしいライブにいきたい。たのしいことがしたい。たとえば生きているということは、もう、そういうことでしかない。


 8月7日(日)

 クリーニング屋さんにいったり、早稲田松竹で園子温の映画を見たりしないといけないはずだったけれど、起きたら11時で、チキンラーメンを食べて12時に寝て、起きたら夜の9時だった。びっくりした。
 松屋までごはんを食べにいって、それからロイヤルホストでドリンクバーだけ頼んで小説を書いたり、ルソー「人間不平等起源論」を読んだりした。ルソー「人間不平等起源論」は要約すると「おまえら現代人くずすぎ…」というものだと思うけれど、この本が美しいのは、そこに流れている感覚が美しいからだと思う。ルソーは原始時代の平等について語り、時代の経過とともに発生した不平等についても語り、そして、専制主義について次のように語る。

 
 この最後の変化に先だつ時代は、混乱と災害との時代であろう。しかし結局すべてが怪物に呑み込まれてしまい、人民はもはや首長や法律ももたず、ただ僭主だけをもつこととなろう。この瞬間からまた、習俗や美徳が問題にならなくなるであろう。なぜなら、「美徳について何の期待ももてない」専制主義の支配するところではどこでも、専制主義は、けっして他のいかなる主人をも許容しないからである。それが口をきくやいなや、そこには考慮すべき誠実も義務もなくなり、極度に盲目的な服従だけが奴隷に残された唯一の美徳となる。
 これがすなわち不平等の到達点であり、円環を閉じ、われわれが触れる終極の点である。ここですべての個人がふたたび平等となる。



 ルソーのこの感覚が美しいと思う。螺旋を描いてゆるやかに下降していく不平等はある一点で下降をやめ、平等としてそのかたちをとどめている。


 今や彼らは無であり、家来はもはや主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、善の観念や正義の原理がふたたび消滅してしまうからである。


 それはたしかに300年近くまえの理論、300年近くまえの話だけれど、わたしたちは当時からなにか変わったのかな。「主人」と「奴隷」のふたりがいる時代から、「奴隷」と「奴隷」のふたりがいる時代に変わっただけかもしれなくて、従うものがひとつしかないという意味では、なんにも変わっていないかもしれない。ただ、ルソーの感覚の美しさだけは、信じたい。




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