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接着剤でくっつけられた世界の断面と断面

2011.08.15(00:52)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)抱擁家族 (講談社文芸文庫)
(1988/01/27)
小島 信夫

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 8月8日(月)

 会社にいった。ひさしぶりにちょっとだけはやく帰れて、ベックスにいって本を読んだり小説を書いたりした。わたしが書いている小説がとてもつまらなく感じた。


 8月9日(火)

 会社にいった。


 8月10日(水)

 会社にいった。


 8月11日(木)

 会社にいった。。


 8月12日(金)

 会社だった。


 8月13日(土)

 起きたら午後の3時だったからびっくりした。早稲田松竹でゴダールを見たり、シネマヴェーラでナチス映画特集を見たり、下高井戸シネマでゴダールの最高傑作「はなればなれに」を見たりしないといけなかったけれど、全部いやんなって、クリーニング屋さんにった。クリーニング屋さんはお盆休みをとっていた。こころのなかで「ぺっぺっ」と言って帰ってきた。暑い。8月になって地球もようやく本気をだしてきたらしく、勝てない。まったく勝てない。
 近くのドトールへいって小島信夫「抱擁家族」を読んだり小説を書いたりした。


 俊介は時子の寝息にきき耳を立てながら、眠らなかった。



「アメリカン・スクール」を読んだときにもさんざん書いような気がするけれど、小島信夫の文章は異様すぎる。「きき耳を立てながら、眠りについた。」というならわかる。でも「眠らなかった。」というのはまえの文脈をわざと破綻させているとしか思わない。「眠る」というのは自動的な要素が強いイメージの言葉だと思う。それにはんして「眠らない」というのがひどく意識的な動作として描かれていることが1文でわかるけれど、そういうこととは関係なしに、ふつうの作家なら「寝息にきき耳を立てながら、」から変えて意識的な動作として描くとわたしは思う。だから、この文章がおそろしいのは「眠らなかった。」からはじめて意識的な動作になるということだと思う。「きき耳を立てながら、眠らなかった。」という文章の「、」で非意識と意識で断絶されているのもかかわらず、「ながら」で続けているからこの文章は小説全体のトーンとあいまって異様に響いてくる。こういう文章を「ながら」をつかってはふつう書けない。
 それだけでなく「抱擁家族」という小説は平易な文体をつかっているくせになにが起こっているのかとてもわかりづらい。いまどこにいて、時間はどうで、だれがその場所に存在しているのかすらわかりづらい。


 俊介は部屋に戻ると、フトンに顔を押しつけて、すすり泣きはじめた。
「入っていいですか」
 と山岸がノックしながら、いった。


「山岸がノックしながら、いった。」その瞬間に、世界は壊れている。「山岸がノックしてそう言うのが聞こえた。」というのならわかる。「俊介は部屋に戻ると、フトンに顔を押しつけて、すすり泣きはじめた。」という描写はあきらかに俊介をとらえているものだから、その次に起こることを自然につなげていきたいなら俊介にたいしてまわりがどう働きかけているかを描いたほうがいいはずだ。ここでの山岸のあらわれかたはあまりにとつぜんすぎるとわたしには思える。「俊介の世界」と「山岸の世界」というふたつがあって、小島信夫はそれを接着剤でいびつにくっつけているように見えてしまう。
 そんな世界はなりたたない。だから、この文章が描かれた瞬間に世界は壊れてしまう。わたしはこの小説を読みながらメタフィクションを思った。この小説にでてくるひとたちはだれも虚構に思える。けれど、その虚構のなかでこれらのひとはとてもよく現実として存在しているように思える。
 帰ってから、映画のリスト(思うところあって本と音楽のリストをあわせてつくっている)をつくりはじめた。さいきんはずうっとつくっているけれど、発狂しそうなほど苦しい。映画の題名をずっと見ていると文字がゲシュタルト崩壊を起こしてきて、その映画がいったいなんなのかわからなくなってくる。


 8月14日(日)

 起きて調べたら「はなればなれに」は日曜日はやっていないことがわかって愕然とした。かなしかった。
 池袋のロフトまで目覚まし時計を買いにいった。目覚まし時計を買わなくちゃいけないけれど、せっかくだからかわいい目覚まし時計がほしいなあと思った。猫かさぼてんがいいなあとわたしは思った。朝になるとにゃあにゃあ言いながらわたしの顔をばりばりひっかいて起こしてくれたり、朝になると「まんぼ!」とか言いながら棘でちくちく刺して起こしてくれたりするまるで目覚まし時計じゃない目覚まし時計がいいなあと思った。でも探しても探してもロフトはなかった。池袋なんてロフトが50個はあると思っていたのに。池袋のばか。
 高田馬場までいってエクセシオールカフェで小島信夫「抱擁家族」を読みきり、小説を書いた。エクセシオールカフェはドトールより2割増しでエレガンス度が高いと思っていたけれど、100円ショップで買って麦茶とかつくっておくプラスチックの容器からアイスコーヒーをよゆうでそそいでくれるのはどういうわけなんだろう。「え、えれがんす…」と思った。
 早稲田松竹でゴダール「気狂いピエロ」、「勝手にしやがれ」を見た。「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナはあまりかわいくなくて、かわいくなるのは水兵さんのかっこうをしはじめてからだなとあらためて思った。わからないけれど、ゴダールの最高傑作は「気狂いピエロ」や「勝手にしやがれ」という認識が大多数をしめているのなら、わたしはそうじゃないかもよときちんと言いたい。「はなればなれに」、「ウイークエンド」、「アワーミュージック」、「男性・女性」も見にいってほしいし、もっとやってほしい。
「ソシアリスム」の予告編をもう何度となく見させられているけれど、この予告編はこれだけでひとつの完結した映画なんじゃないかと思わせられるほどのちからがあると思う。それをなしとげているのは映像と音だけれど、考えてみれば映画を見て「音がすごい」という感想をはじめて持ったのはどういう瞬間だったんだろう。「音がすごい」というのと「音楽がいい」というのは似ているようでぜんぜんちがうような気持ちがする。ゴダールは音楽を音としてつかっている。そこにはひとつの「気づき」みたいなものぜったいにあって、映画をずっと見ていくうえで、それはたいせつなんだろうなとすこしだけ思った。
 吉本隆明「言語にとって美とはなにかⅠ」を読みながら帰った。ものすごいことが書いてあるんじゃないのかにゃあと思った。


 言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。


 意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値とよぶ。



 作中で引用されている三浦つとむ「日本語はどういう言語か」からも引用する。


 認識を基盤にして音声が語られ文字が書かれたとき、それまでは単なる空気にすぎなかったものが音声になりペンの上にあるインクの一滴にすぎなかったものが文字となったとき、そこに意識的に創造されたかたちはその背後にある認識とつながっています。この創造されたかたちに結びつきそこに固定された客観的な関係が、言語の「意味」なのです。


 概念そのものは意味ではなくて、意味を形成する実体です。概念そのものの消滅は、これによって形成された意味の消滅を意味しません。意味は話し手書き手の側にあるのではなく、言語そのものに客観的に存在するのであって、音声あるいは文字の消滅とももに、すなわち表現形式の消滅とともにそこに固定された関係が消滅し意味も消滅します。



 たとえば、「文学はなぜ芸術なのか」という問いがここにふくまれていると思う。「文学はなぜ芸術なのか」という問いにすくなくともわたしは答えられない。それでもわたしがずっとずっと思っているのは「あなたはなにを書いているんですか」と訊かれたら「答えられない」と答えようということだ。答えられるものはぜったいに書かない。
 …読みたい本がいっぱいある。ぜんぜん本が読めていない。仕事なんて読みたい本を犠牲にしてまでやることじゃないのに。森にいきたい。湖にいきたい。海にいきたい。貯水池にいきたい。




コメント
お久しぶりです。貯水池って不思議な字面ですね。溜めるじゃなく貯める、どうちがうんでしょう…わたしは野っぱらにいきたいです。
【2011/08/16 22:00】 | ヤマダ #- | [edit]
ヤマダさん

お水をためると
お金もたまるのですよ!
(てきとうに言っているだけですよ!)

僕は砂漠にいきたくなってきました。
【2011/08/19 20:43】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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