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言語にとって美とはなにか

2011.08.19(22:08)

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 8月15日(月)

 会社にいった。記憶に耐えられるほどの思い出すらもつくることができなかった。


 8月16日(火)

 会社にいった。小麦畑がひろがっていた。


 8月17日(水)

 おやすみをとったのでうっかり眠ってばかりいた。起きたら午後の3時だったからびっくりした。
 新宿まででかけて東急ハンズでかわいい目覚まし時計を買おうとした。東急ハンズにはかわいい目覚まし時計が売っていなかった。りんごのかたちをしたものを買おうと思ったけれど、目覚まし機能がついているのかどうかわからなくてこわくて買えなかった。床を這いずりまわって逃げていく目覚まし時計が売っていたけれどかわいくなかった。それにきっと殺してしまいたくなるだろうからやめた。つまらない目覚まし時計を買った。まるで俺のようにつまらない目覚まし時計だなと思った。
 らんぶるでコーヒーを飲みながら小説を書いていたらデモをやっていた。ひとびとはあいかわらず「原発反対」とさけんでいた。日本にあとどれくらい安全があるんだろうかと思った。たとえばひとに「20年後の新宿がまだまともに夜に歩ける場所だと思っているの?」と訊かれたらわたしは塩のように黙っちゃうだろう。
 下高井戸シネマでゴダール「フォーエヴァー・モーツアルト」を見た。緑色がほんとうにきれいだった。こんなにきれいなものがあっただろうかと思った。帰った。


 8月18(木)

 もうにんげんとして死んでいくしかないと思ったから6時30分に起きて、7時30分からドトールへいって小説を書いたり吉本隆明「言語にとって美とはなにか」を読んだりしていた。朝なのに暑くて、いつもとはちがう角度の光がお店のなかに強く射していた。溶けてしまいそうだった。溶けてしまいそうな場所、溶けてしまいそうなにんげんたちだった。
 会社にいって帰った。
 家にいるときには読みやすい本しかもうまともに読めないような気持ちがして、村上春樹「羊をめぐる冒険」を読みはじめた。わたしは村上春樹についてかつて「『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』は小説じゃない。『羊をめぐる冒険』から村上春樹は小説を書きはじめた」となんにも考えないでてきとうに書いたことがあったけれど、この小説の冒頭の「水曜の午後のピクニック」というパートはまだ小説じゃないものに属していると思う。ヴォネガット「ジェイルバード」では小説本編がはじめるまえに数十ページの序章がある。あるいはキューブリック「2001年宇宙の旅」の冒頭の猿たちの場面もそれに近いと思う。


 彼女は笑って煙草を灰皿につっこみ、残っていた紅茶を一口飲み、それから新しい煙草に火を点けた。
「二十五まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」

 一九七八年七月彼女は二十六で死んだ。



「水曜の午後のピクニック」はこの文章で閉じられるけれど、ここにはかなしみはない。さわやかさをふくんだ予兆があるだけだとわたしは思う。いくら文章であらわされていてもそれは予兆で、それはこれからなにかがはじまるんだという感覚でしかないと思う。こういう文章のつかわれかたがどういうものかわたしにはよくわからないけれど、ここで感じられるのは「水曜の午後のピクニック」というものがこれからはじまる小説とはべつの小説だという感覚だよ。パートはそれじたいでひとつの小説になれはしないけれどみょうに閉じた感覚があると思う。「ジェイルバード」とはちがう、「まごころを君に」にたいしての「Air」ともちがう、カフカやマルケスの1行めともちがうと思う。なんだろう。


 8月19日(金)

 朝にドトールへいって小説を書いた。
 会社にいった。帰ってドトールで「言語にとって美とはなにかⅠ」を読みおえた。
 200回死になおしたとしてもなにが書いてあるのかわからないだろうとわたしは思うけれど、この本が感動的なのは、にんげんが文学である表現をおこなえるようになったということがいったいどういうことなのか書いてあるからだと思う。


 鼻高く眼清しく、口元もまた尋常にて、頗る上品なる容貌なれども、頬の少しく凹みたる塩梅、髪に癖ある様子なんどは、神経質の人物らしく、俗に所謂苦労性ぞと、傍で見るさへ笑止らしく、其粧服はいかにといふに、此日は日曜日の事にてもあり、且は桜見の事なるから、貯の晴衣裳を、着用したりと見ゆるものから、衣服は屑糸銘線の薄綿入、たしかに親父からの被譲もの、近日洗張をしたりと見えて、襟肩もまだ無汚なり。
                   ――坪内逍遥「当世書生気質」(明治18年)



 寺が寝静まる。私は金閣に一人になる。月のさし入らぬところにゐると、金閣の重い豪奢な闇が私を包んでゐるという思ひに恍惚となった。この現実の感覚は徐々に深く私を涵し、それがそのまま幻覚のやうになった。気がついたとき、亀山公園で人生から私を隔てたあの幻影の裡に、今私は如実にゐるのを知った。
 私はただ孤りをり、絶対的な金閣は私を包んでゐた。私が金閣を所有してゐるのだと云はうか、所有されてゐるのだと云はうか。それとも稀な均衡がそこに生じて、私が金閣であり、金閣が私であるやうな状態が、可能にならうとしてゐるのであらうか。
                     ――三島由紀夫「金閣寺」(昭和31年)


 
 文章でなにかを表現することを見たとき、これらを書いたのが同じにんげんという種族でありえるんだろうかという驚きにまでふくれあがるような気持ちがした。すくなくとも坪内逍遙の文章は「ローマ字入力でひらがなの文章を入力して漢字変換する」というわたしが文章を書くのにふだんつかっている方法では書きうつすことすら満足にできない(わたしが漢字を読めなすぎるのもあるかもしれないけれど)。「なにを書くか」ではなく、「どのように書くか」という表現のやりかたでのみさらけだされるなにかがあって、そのさらけだされるなにかによって世界が構築されていることをひっそりと思う。
 顔が荒れて荒れてしかたがないと思った。ボディソープがなくなったからシャンプーで顔を洗っているせいか、ボディソープがなくなったからシャンプーで顔を洗っているせいかの、どちからだ。 




コメント
村上春樹の小説は4冊しか読んでいませんが、崇徳上皇のお墓がある県に住んでいる人間としては短編「レキシントンの幽霊」にシビレました。あれは上田秋成だよう、「雨月物語」だよう、「春雨物語」だよう。「この世」と「あっちの世界」の境目まで行ってから「帰還」する。そこらへんが秋成チックです。
【2011/08/25 17:27】 | ぐっしい #- | [edit]
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